壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

月と二人とやさしい嘘

『月と二人とやさしい嘘』


    一

「おまえにピッタリの娘を紹介してやるよ」
 唐突に西野は言った。
 西野はカオルの右腕をつかむと、軽々と引き上げた。
 金曜日の放課後。部室棟へ向かう渡り廊下。暦の上では春とはいえまだリノリウム敷きの床は冷たい。
 不意にあらわれて突拍子も無いことを言い出すこの友人をカオルは嫌いではない。
 いつもつるんでいるわけじゃないのに妙にウマが合う。アプローチは全然別だけど、同じものを見ているという安心感があった。
 西野はカオルよりも目線一つ背が高い。カオルは西野のあごに頭をぶつけそうになりながらも、ふらふらと立ち上がった。
 そのまま結構がっしりとした西野の胸に倒れこみそうになるカオルをかわし、西野はカオルの薄い背中をどん、とどやしつける。
「ほら背筋伸ばせ」
「いいよ、女の子なんて」
 咳き込みながらカオルはこたえる。
「馬鹿野郎、来年はもう受験生だぜ。今のうちに彼女の一つも捕まえておいて、灰色の受験生活を支えあうのがいいんじゃねえか」
「よくわからないよ、その設定。それに……」それに僕は進学するつもりはない、という言葉をカオルは飲み込んだ。
 なんだっけ、そうそう僕は美術系の専門学校に進むつもりでもう準備をはじめているのだ。そういうことになっていた。
「実はこんなものを預かっている」
 西野は制服のブレザーの内ポケットから淡い水色の封筒を取り出した。宛名に『櫻庭カオルさま』とあるのが見えた。
「うらやましい話じゃねえか、想いを寄せてくれる女子がいるなんてよ。なあ、コレここで開けていいか?」
 西野が封筒に貼られた何かのキャラクターのシールを剥がそうとするのを、カオルは慌ててひったくった。
 そのまま仕舞ってしまうのもバツが悪く、興味津々といった顔の西野の目の前でわざとぞんざいに封を切る。

 櫻庭カオルさま お伝えしたいことがあります。本日午後四時校舎裏の一本桜でお待ち申し上げております。  琴子

 なにか眩暈のようなものをカオルは感じた。
「なあ、ウチの学校の裏に一本桜なんて……」と言いかけて、便箋から目をはずすとグランドの向こうにピンクの色彩が見えた。
「おい、なんて書いてあった?」
 便箋をのぞきこもうとする西野を左手でいなし、渡り廊下の窓を開ける。冷たい中に新緑の匂いをはらんだ風が、運動部の掛け声とともに吹きこんできた。
 野球場が三面取れる広いグランドの向こう、まだほとんど緑の無い山並みを背景におぼろに霞む桜色が見えた。
 グランドの端に見えるサッカーゴールより優に百メートルは後ろにあるのに、遠近法に自信が持てなくなるほど立派な枝ぶりの桜だ。
(いくらなんでもこれはベタだよな)
 カオルが独りごち西野に向き直った瞬間、半透明の選択ウィンドウが空中に現れた。
 厚みはほとんど無い。エッジを丸めたブルーのフレームの中に流麗な文字が浮かんでいる。
『一本桜に向かう Y/N』
(まあここは王道ってことで)
 カオルは空中のイエスアイコンに右手の中指でさりげなく触れる。
 このシミュレーションプレーン内でこうしたインターフェースを扱うには、体の特定の部位を用いる必要がある。
 もちろん、今はシミュレーション内のキャラクターに過ぎない西野にはこのインターフェースは見えていない。
 上半身を選択ウィンドウにめり込ませたままフリーズしていた西野が、ウィンドウが決定され消えるのと同時にしゃべりはじめた。
「琴子のヤツお前に目をつけるなんてなかなか変わってるよな。まあ、いまどきケータイも持ち歩かないで、手紙を人づてで渡す時点でヘンなヤツではあるけど……」
「西野、いま何時だろう」
 便箋を適当に折りたたみ胸ポケットに入れる。封筒のほうは丸めてズボンのポケットに突っ込んだ。
「よしよし、やる気になったな」
 西野は陽に焼けた顔をほころばせて腰のキーチェーンにぶら下げていたケータイを見た。「三時……五分ってとこか」
「じゃあ、あと一時間もないのか。あそこの……」目線で窓の外の桜を示す。
「あそこの一本桜で待つってことなんだけど」
「琴子のヤツ、どこまでも古風だな。顔はそう悪くないのにイチイチやることがベタというか。知ってるかあそこの桜は……」
「いや、たぶん知ってる」
 言いかけた西野を制し、カオルは床に置いたままの鞄を拾った。
「もう少し時間もあるし、購買で何か買って食おうぜ。お前が居てくれたほうが心強いし」
「あ、ああ。もちろん見届けてやるよ。それでどーすんだよ琴子のヤツ」
 埃っぽい空気の中西野と肩を並べて歩きながらカオルは購買の惣菜パンが売り切れていないだろうかと考える。それに西野、このシチュエーションは思い出してみたらもう三度目だよ。

 カオルはシミュレーションプレーンへの没入度が下がってきたことを感じていた。おそらく継続プレイ時間が長時間に渡っていることに警告がうながされているのだろう。
 ゲーム内でリアルでの時間感覚はつかみづらい。
(一度メニューを出して状況を確認しておこう)
 カオルは右手の中指でメインメニューを呼び出すジェスチャーを空中に描く。
 メインメニューが呼び出されると、シミュレーションプレーンに身を置きながら没入レベルは限りなくゼロに近づく。
 カオルは本来の自分へ還元されるとともに、世界のリソースが一気に消費され周囲に微細なノイズが立ち込めるのを味わった。揺り椅子で仰向けになりすぎて、慌てて姿勢を正すようなこの感覚は嫌いじゃない。
 中学生の男の子の姿のままで、カオルは眼前に現れたメインメニューを開いた。
 カオル以外の周囲の状況はフリーズし、停止モードであることを示すために彩度が落ちたセピア色の世界となっている。
 西野はこんなゲームの中でも人に安心感を与える口元の笑みを絶やさない。凍りついたままの笑顔でも、それはカオルには安心できるものだった。
(セーブ終了っと。琴子に西野へ逆転告白させるには、あとどこのフラグ立てとけばいいんだっけ……)
 その瞬間このシミュレーションプレーンの外で大量のリソースが消費されるのが感じられた。
 首筋が粟立つような感触。おもわず身震いした。
 ゲームのメニューが強制終了され、緻密に計算されていた周囲の風景はどんどん荒く削られていく。
「西野!」
 カオルが叫ぶと西野の方も本来の意識を取り戻した。固定されていた目に焦点が戻り、いつもの何かを面白がっているような、それでもひどく真面目な口調で言った。
「シェルターの外部センサーからアラートを受け取った。戻るよ、カオル」

    二

 シミュレーションプレーンの強制終了なんて滅多にあるもんじゃない。
 一度大量殺戮ゲームでズルをしようと、ヒットポイントがゼロを割る瞬間にオートセーブしないで終了するよう、手製のプログラムを仕掛けておいたことがある。
 パーティを組んでダンジョンにもぐるタイプのゲームだった。それなのに、あのころはなぜかソロプレイに熱中してた。なぜそんなに一人でなんでもやろうとしてたんだろう。
 ゲームデータはちゃんとその前のセーブポイントで保存されてたけど、生理レベルに近いところまでドラゴンのブレスが感じられて、危なく本当に火傷するところだったっけ……。

「……」
「……カオル、大丈夫?」
 カオルが目を開くと、鼻がぶつかる距離に西野の二重の瞳があった。
 南洋系のはっきりとした顔立ちに健康的な肌色。見慣れた少女の顔に男物のブレザーの制服はいかにも不釣合いだった。
「西野、服」
「えっ! 嘘。なにこれ、また美少女ゲームなんてやってたの?」
 西野は慌てて自身の外装を普段の簡素な白のブラウスに黒いパンツスーツに描き変える。いつも、あまりにも代わり映えがしないので『女教師』とカオルに馬鹿にされている格好だ。
 カオルはベッドに仰向けに寝ていた。視界の隅にシミュレーションプレーンが強制終了した旨のダイアログが点滅してるのを、手で払って消し去る。
 シミュレーションプレーンに入る時は、AI(人工知能)である西野の意識は大きく制限される。後でゲーム中のロールプレイの記録を見て、憮然としていることもある。
 それがおもしろくて、あえてゲームの時と普段のAIの連続性を絶つように設定しているのはカオルのほうだ。こうした権限は現在西野のマスターであるカオルの手にゆだねられている。
 カオルはすでに生理レベルまで意識が戻っていた。
 つまり十四歳の少女の現実の姿だ。シミュレーションプレーンに接続する前の普段着姿。
 最近はシェルターに入る前に着ていた、学校のセーラー服を好んで身に付けていた。
「そんなことより、アラート! レベルスリーよ。シェルターへの電力供給が異常に低下してる」西野が思い出したように叫ぶ。
「どーゆーこと?」
 カオルはベッドに半身を起こし、いつものクセでうなじの脳パルス端子に触れた。意識が目覚めている時は若干感度レベルを下げておかないとフィードバックがキツすぎて気分が悪くなる。
「外のセンサーを全部起こしてみないとわからないけど??発電装置に異常が起こったのかもしれない」
 ちょっと待ってて、と西野は目配せをすると自分の周りにインターフェースとモニターをいくつも展開し、忙しく操作をはじめた。
 モニターに半透明の輝点がいくつも明滅し、流れてゆく。
 AIである西野は本来こうしたインターフェースを使用する必要は無い。自身と直結しているシェルターの機能管理中枢にアクセスすれば良い。
 カオルの脳パルス端子を通じてこうした姿を見せているのも、ひとえにカオルの精神面での破綻を防ぐためだ。より人間らしく。より自然に。
 これはカオルが命じたことでも、あらかじめプログラムされていたことでもない。西野本人が良かれと思って行っていることだ。
 実を言えば西野はカオルより早く生まれたAIだ。
 カオルが物心ついた頃から今の姿のままで家族の一員として生活していた。姉のように、時には実際の母よりも母親らしく。
 生後すぐに脳パルス端子の移植手術を受けたカオルにとって、AIも実在の人間も変わりない存在だった。ただ一つ、当たり判定が発生しない点を除いて。
 リアルの生活で視聴覚や嗅覚を騙して、AIがそこにいるように感じさせることは今の技術ではたやすい。しかし、手触りやぬくもりは難しく、物理的に触れたりつかんでもらう事に至っては不可能だ。
 アンドロイドにAIを組み込めば触れることができるが、皮肉なことに脳パルス端子が見せる全感覚バーチャルリアリティとはその?本物らしさ?には大いに隔たりがあった。
 そんなわけでカオルはシミュレーションプレーンで西野と会うことを好んだ。自分も感覚だけの存在になれば、AIと人間の間に違いは無かった。さっき途中で終わったゲームのように、実際とは異なる存在になりきることも可能だ。
「まずいわね……」
 西野は呟きながらいつの間にか取り出したスツールに腰をかけ思案顔だ。
 西野はいつもなにか心配しているようなところがある。AIというのは全部そんなものかとカオルは思っていたが、西野にいわせればこれは彼女なりの個性というものであるらしい。
「カオル、これを見て」
 西野はバーチャルのモニターではなく、シェルター内の実物のスクリーンにセンサーの映像を投影した。
 音声は無い。煤けた狭いダクトのような光景が映されていた。壁に敷設された配管が破れているのがわかる。
「結論。このシェルターの唯一の動力ケーブルが破損したわ」
「それって直せるんでしょ」
「そうね、外に出られれば」
「じゃあ、わたしが……」
 カオルが言いかけたところを西野がさえぎった。
「カオル、よく聞いて。これは私たちが助かる最後のチャンスかもしれないの」

    三

 気のせいかシェルターの照明が照度を落としたようにカオルは感じた。
 ベッドに腰掛けるカオルの横に西野も腰をおろした。息遣いも、温もりまで感じられるが、この西野は脳パルス端子の見せる虚像である。
 腰をおろした瞬間も、ベッドのスプリングがたわむことはなかった。
 それでも西野が自分を気遣ってくれる気持ちをカオルは感じた。
「まず復習。カオル、ここはどこ?」
「どこって、月面でしょ。コペルニクス植民地」
「そう。月で最大のドーム型都市。そこのVIP用シェルターに私たちはいるわ」
 西野は周囲を見回す素振りをする。
 素っ気無いが二人だけで使うには広すぎる空間。ここだけ見ればスイーツのベッドルームと言っても通るだろう。扉の向こうには、キッチンや驚くべきことにエクササイズルームまで備え付けられていた。
 カオルの父は世界一の規模を誇る宇宙用建機メーカーの部長である。この企業の月面開発プロジェクトにおいては、事実上のトップといって良い立場にあった。
 一人娘のカオルと母は単身赴任の父を訪ねての短期滞在中だった。
 三万人の人口を数える月面最大の都市とはいえ、そのほとんどは月面開発に携わる国家や企業の人間である。夫婦が子を産み、育て家庭をはぐくめるような環境は整っていない。
 父を訪ねてただの民間人が月面までやってこれるという事実ひとつだけでも、カオルの父の持つコネクションと影響力は相当なものであるといえた。
「企業体の宿舎じゃなんだからって、ホテルに追いやられて。結局パパには一度しか会えずにテロが起こっちゃった」
 テロの危険性は盛んに喧伝されていたように思う。カオルは詳しい背景は知らないが、父が忌々しげにテロリストを罵っていたのを目にしたこともある。
 ただ、カオルの父のような立場の人間にとっては、地球にいるよりは月面のほうが安全なのだ。いかに国際テロ組織とはいえ、民間の定期便が運行しているわけでもない月に密かに侵入するのはなかなか難しいことといえた。
 到着して二日目の朝。全てはカオルの睡眠中に起こった。
 カオルの両親は早朝から勤め先の方へ行っていたはずだ。
「櫻庭夫妻は幸い企業体の本部にいたから一番安全。あそこなら単独で地球に戻る設備も持っているし」
「で、わたしはカオルの危機回避プログラムのせいで、寝坊してたまま鎮静剤を打たれてホテルの地下のシェルターに運び込まれたのよね」
「そう。それにここなら私を存続させるのに充分なリソースが単独であったから。カオル、私のようなAIにとって一番怖いのはサイバーテロなのよ」
 まず大規模なネット擾乱が引き起こされたのだという。
 未知の攻撃性ウィルスによる、地球との通信中枢への爆発的なアタック。この時点で西野は地球に置いてあった自分のバックアップとの連続性を失っている。
 ウィルスのアタックだけなら一時的な麻痺は免れなかったものの、ネットは自立回復も可能だった。ここのコロニーのネットの免疫機構はまずどのようなウィルスにも屈しない。人の手を借りずにウィルスすら自らの全体性をに取り込み安定を図る。
 同時に一瞬の隙をついて起こされた発電設備への物理的な攻撃が、この都市を死に追いやった。
「私もこのシェルターのリソースに自分を移してからは外の様子は全くわからないの。でも月面のネットワークが完全に停止しているのは間違いないわね。ウィルスに二次感染しないように独立したメッセンジャーも放ってみたけど、反響すら返ってこなかった」
 この時代、太陽系を結ぶ惑星間ネットワークが完成されつつあった。しかしいくら優秀なインフラが整っていても、電力が通じないことにはただの電話線ほどの役にも立たない。
 ことに地球との幹線を絶たれれば完全に孤立する、月面のような環境においては。
「で、自立した環境維持装置の完備したシェルターにわたしたちは幽閉されてるってことでしょ。みんな無事なのかしら」
「スペースシップは月面のネットワークと切り離しさえすれば、地球と直接線を結んで飛びたてたと思う」
 しかし電力の使えない月面ではコロニー内の生存環境を確保することはできない。このシェルターの数少ない外部センサーも地上は死の世界だということを物語っていた。
「あと、私たちみたいにシェルターに閉じこもっている人はかなりいるでしょうね」
 つとめて西野は明るく言う。
「一体助けはいつになるの? もう一週間でしょ」
 一瞬西野の表情が硬くなる。しかし今しか真実を明かすタイミングは無い。
 触れることのできない手をカオルの手に重ね西野は言った。
「本当は一週間じゃないのよ、カオル。もう半年もこのコロニーの地上には人間の反応がなかったの。私はあなたを眠らせて、欺いてきたのよ」

    四

 カオルには西野の言うことが理解できなかった。
「えーと? でもまだ何回かしか眠ってないし、食事だって。そりゃシミュレーションくらいしかやることないからアンタと遊んでばっかだったけど、あれって生理時間で六時間以上入り込まないようにセットされてるはずよね?」
 シミュレーションプレーンに没入している間、人は時間感覚を一定に保つことができない。
 ほんの数分で数時間におよぶレクチャーを受けることも可能だし、逆に脳の反応を遅延させて一瞬の経験を無限に引き伸ばすこともできなくはない。
 六時間というのは現実世界での生理的欲求を勘案して定められた安全基準である。
 廃人と呼ばれるようなネットジャンキーの中には恒常性維持装置《ホメオスタシス・プール》に浸かって常にネット上で生活しているような者もいる。
「さっき煤けたダクトの映像を見せたわよね。あれは本当。このシェルターに備え付けられた救難信号弾が暴発したの。外部センサーが人間の反応を捉えたら自動的に発射されるようにしてたんだけど……予想以上にシェルターの外は破壊されていたみたい」
「じゃあ、助けが来たってことじゃない! 外に出れば……」
「だから!」
 思いつめたようで西野はカオルの手をとった。
 自分の体が不意に重さを失うのをカオルは感じた。バーチャルな存在のはずの西野に手を引かれてそのまま宙に浮かんでゆく。
「これって……」
「そうよ」
 カオルはおそるおそる周囲に目を向けた。
 部屋の様子はさほど変わりが無い。ただ照明はほとんど落とされていた。
 かわりに先ほどまで腰をかけていたクィーンサイズのベッドが変貌していた。
 大きさはさほど変わりないが、滑らかな金属製のプールに半透明のカプセルのようなものがなかば沈んでいる。プールに満たされた溶液は薄いピンク色で自ら発光しているかのように光を当てられていた。
 そこに浮かび上がる人影は??カオル自身のように見えた。

「いま見てるのが本当のシェルター内部」
 囁くように西野は言う。感情を押し殺しているようにカオルには聞こえた。
「現実だと思っていたシェルター内の光景がシミュレーションプレーンだったの。本当のカオルの肉体は冬眠状態にしてあるわ」
「つまり今のわたしも、さっきのゲームの中のわたしも……」
「そう。どちらもシミュレーションプレーン内の外装だったの」
「どうして、わざわざそんな」
 そんな手の込んだことをしたのかとカオルは思った。
 その気持ちを汲んだように西野が続ける。
「鎮静剤を打ってシェルターに運び込んだところまでは本当。その際の規定の手順としてコールドスリープカプセルが用意されるのよ、月面では」
 その後ネットワークと電力供給の復旧を待ってカオルを起こそうとした。十二時間待っても変化がないことを確認した時点で西野は決断した。
「このシェルターには確かに充分なエネルギー備蓄も設備もあった。でもエネルギー供給が無い状態では、あなた一人を生かすだけでも一か月が限界だったの」
 カオルを冬眠状態にし、エネルギー消費を最低限に抑えた。これならあと五〇年でも持っただろう。でも、と西野は続ける。
「でも、脳だけは起こしておかないといけないの。外惑星への探査船で起きた事例だけど、あまりに長いあいだコールドスリープを続けると生体脳はパルスを喪失する」
「聞いたことあるわ」
 カオルは空中に浮かんで自分の体を見下ろすという経験を受け入れ始めていた。
 それとも心が平静を保っていられるのは、西野の存在をこんなに身近に感じられるからだろうか。西野と結んだ右手をぎゅっと握る。
コールドスリープで夢を見ないでいると、魂が体から離れちゃうって……」

    五

「これで話は全部終わり」
 カオルは西野の顔を見つめた。全てを見透かされるような、いくら嘘を重ねても決して穢れることの無いようなAIの瞳。
「この後の決断はカオル、あなたに任せる。さっきの救難信号弾の暴発でこのシェルター内の残りエネルギーは少なくなってる。でも、このままコールドスリープを続けることもできるわ」
「エネルギーはどのくらい持つの?」
「およそ一年。さっきの外部センサーの反応がこのコロニーの再建に来た人たちなら、早晩外部からの電力供給も復旧するでしょう。これなら一番安全に地球に帰る事ができる。望むならエネルギーが復旧する瞬間まで、体感時間を早送りしてもいい」
「それ以外の選択肢も教えて」
 西野はカオルの手を放し、両手で肩を押さえる。
「いい? 実を言うともう一つの選択肢のほうが、生還する確率は高いと思うの。でも……」
 目で促すと西野はゆっくりと、言葉を区切るように続けた。
「でも、こっちだとカオル、死ぬ時はあなた一人よ」

 カオルはうつむいて自分の?本体?の姿を確認した。
 静止画以外で自分の寝顔を見るのは初めてだ。なんて無防備な、幸せそうな顔。
「もうひとつのやり方ってのはつまり、?わたし?が起きて助けを求めに行くってことね」
 西野は黙ってうなずく。
「西野はどうするの?」
 西野の口元に小さな変化があったような気がした。笑ったのかもしれないとカオルは思った。
「私は??あなたの脱出口を開けて待機モードに入る。幸いエネルギーの続く限り眠っていても私には魂がないからね」
 茶化すように言う西野につられてカオルも少し笑った。
「わかった。シェルターにはわたしでも着られる宇宙服があるのね。それで手動で救難信号を打ち上げればいいの? マニュアルはあるかな」
 勢い込んでしゃべるカオルを、慌てて西野はとどめる。
「よく考えて。一度コールドスリープを解いたら再冬眠に入るだけのエネルギーは残ってないのよ。発電機が直せないようなら、このシェルターは人一人を一日も生かしておくことができない。外に出て、もし助けが来てないことがわかったら、待ってるのは確実に近い死だけ」
「そして、その時は自分を維持するためのリソースもわたしの為に削るつもりね?」
 身をよじるように西野の手をはずし、空中でカオルは距離をとる。
「そんなことはさせない。冬眠したまま知らずに死んじゃうなんてもっと嫌。外に出るわ。そしてでっかいバッテリーを引っ張ってくるから大人しく待ってるのよ!」
 カオルが一気にまくし立てると、呆然としていた西野は不意にうつむいた。
 肩を小刻みに震わせると爆笑した。
「ははっあはははははは、はーっおかしい。わかった、OK。それでいこうカオル」
 たまに見せるちょっと皮肉そうな笑みを口元に浮かべ、西野は右手を差し出した。
 ちょっと馬鹿にされたような気分になったが、カオルも素直に握手に応じる。
 西野がおどけるように言う。
「よし、おまえにピッタリの娘を紹介してやるよ。ちょっと強情で気が利かないけど、勇敢でサイコーの魂をもった女の子だ」

ヒトリトフタリ

『ヒトリトフタリ』


 私がベランダから空を見上げると雹(ひょう)が降っていた。
 アパートのトタン屋根にパララララという乾いた打撃音が響く。
 私は以前友人宅で見せられたビデオの、ナチス党の宣伝映画を思い出した。
 機関銃の音というのは意外と軽いものなのだ。
「今日は妙な天気だな」
 食卓テーブルの上に載せたノートパソコンで、なにやら作業をしている“ぼく”に私は言った。
「晴れたり曇ったり、雨も雪も雹も大風まで忙しいことだ」
 ぼくはまったく同感だと言う気持ちを大げさに込めて返した。
「外にも出られなくてつまらなくはないか?」
「いや、ぼくはお前が思っているよりもずっと忙しい」
 そうだ。ぼくには小説を書くという大義がある。
 なにかといえば遊ぶこととと飲むことばかり考えている“私”とは違う。

「そろそろ風もやんだな。気分転換にコンビニまで行くというのはどうだ?」
 私は立ち上がり、ぼくの耳元でささやいた。
 この男は結局一人がさびしいのだ。
 人嫌いのくせにさびしがり屋だから、コンビニエンスストアの十分に距離の離れた人のぬくもりが丁度良い。
 そんな考えはぼくも承知していたが、朝からバナナと牛乳だけでつないでいた空腹がそろそろ限界に達していたことも確かだ。
 ここで偏屈になって私の提案を蹴るのも大人げない気がした。
「食い物だけだぞ」
 ぼくは私に釘を刺す。ついつい漫画雑誌など購入して資源ゴミを増やすのはむしろぼくの方なのだが。
 私は調子良く言葉を返す。
「おにぎり二個とアイスくらいで手を打っといてやるよ。きょう一日私もお前もろくに動いていないからあまり食わない方がいいだろう」
 それに、と私は付け加えた。
「それに、あまり食い過ぎると眠気でお前の作文も進まなくなるからな」
 なにも言い返さず、ぼくは部屋の鍵をじゃらりと鳴らして玄関に出た。
 食い物を与えておけば、私の滑らかすぎる舌も少しはおさまるだろうと期待して。

卓上の物体について

『卓上の物体について』


 半透明で艶やかで軽い。
 それは一見何かを刺すスティックの様な形状をしていた。
 片方の先端が滑らかなカーブを描き、錐の様にすぼまっている。その先には金属の針が取り付けられているようだ。
 プラスチックとおぼしき本体は黄色く着色されており、半透明であることから細長い筒を成していることがわかる。
 内部の中空にはさらに細いパイプが通っているが、材質ははっきりしない。ただしこれも半透明で、内部になにか黒いものが挿入されているのがわかる。
 錐状の先端の反対側は蓋が取り付けられている。このふたは完全に透明で着色されていない。内部には白いゴムのような物体がはめ込まれている。
 この蓋は押してみることができる。軽いクリック感とともに反対側の先端から黒い鉛筆の芯のようなものが繰り出される。続けて蓋を押し下げることで芯は規則正しく送り出される。

「それはシャープペンシルと呼ばれている」
 声が響いた。
「シャープ株式会社が開発したことからそう呼ばれている。もっともこれは和製英語で日本国内でしか通じない」
 ぼくはシャープペンシルと呼ばれた“それ”を改めて握りなおした。なるほどグリップ感はペンシルと呼ぶのにふさわしいもののようだ。
「ちなみに芯は堅さに応じて日本工業規格で種類が定められている。鉛筆より細い芯に強度を持たせるため芯の焼結時にプラスチックを混合していることも知っておくといい。この方式で製造された芯をハイポリマー芯という」
 声は饒舌だった。まだ何かいいたげな気配を感じたがもういいと手でさえぎった。
 鉛筆と同じ用途の物だとわかれば話は早い。
 迷うこと無く、ぼくはノートに文字を記しはじめた。

学園特急

『学園特急』


  学園祭前夜 PM7:55 暴走電車

『…エ……ンを……………のよ』
「? 雑音が、ひどい! もう一度!]
『エン………………………………!』
 思わず怒鳴りつけた無線機の声はいきなりノイズが増した。槙広一郎はヘッドセットを右耳にあてがったまま、この五分間に何度見たかしれない速度計に目を走らせた。
 時速八0キロ。
 正規の運行速度を遥かに超えて路面電車が疾る。とうに夕闇の支配した初夏の学園都市を、新調したばかりのヘッドライトが切り裂いていく。
 湾岸の校舎の建て込む地帯がこの高台からはよくみわたせた。前夜祭のおこなわれる大講堂では、四日間の夢の幕開けを五千人の学生達がグラスをかかげて待ちかまえているはずだ。
「槙クン、部長は何て?」
 手すりを必死につかみながら水谷水紀が叫ぶ。勝気そうな口調はいつものままだが、いかんせん声が震えている。
 広一郎はことさら残念そうな表情でかぶりをふり、「……まだやり様はあるさ」と付け加えた。無線の雑音はいよいよ耳障りの度を高めている。あるいは異常発熱しているモーターかパンタグラフが原因かもしれない。
 浮き気味の車輪が不吉なきしり声をあげた。骨董品ものの一両編成の車体は、次のレールの接合点でバラバラになっても不思議ではない。
 実際、路面電車はよく保っている。この十日間の鉄道部員たちの不眠不休の努力は決して無駄ではなかったということだ。六十年前の車両は電装系をほとんど換装し、ボディーを塗り替え、あまつさえ復旧路線に電源ケーブルをはりめぐらせてつい二時間前にその全作業のほとんどを終えたばかりだ。
 あとは明日の学園祭初日。この学園電鉄を三0年ぶりの眠りから覚ますのを待つのみだったのだ。……五分前までは。
 いまや懐古趣味の丸みをおびた路面電車は一個の優美な砲弾と化していた。貪欲にスピードを求めるこの化け物は、自分が身をまかせているレールの先をしらない。……だいたい試運転もまだなのだ!
 そして到着地を一番よくしっているのが電車の中の二人だという事実は、彼らにとってはもちろん、少なくとも学園の過半数の人間にとって、不幸なことだったのだ。


  学園祭三週間前 PM4:19 鉄道部会議室

 中央待合室のホールには、瀟洒な縁飾りの窓のある高い天井いっぱいに倦怠感と溜息と欠伸が満ちていた。
 昭和初期に建てられたこの「旧」学園中央駅で巨大な会議卓を囲んでいるのは四十人を超す男女である。おおむね紺色のブレザーに身を包んだ若者達であり、このなかに現在進んでいる議事に集中している者が片手の指の数ほどもあれば、彼らの忍耐力は少なからず賞賛されるべきである。
 壇上でぶ厚い書類を読み上げていた女子学生が言葉を切った。「ここまで質問のある者は?」
 いらえの無いのを確認し、彼女はまた無味乾燥な過去の記録を再生しはじめる。
 会議は既に二時間を超えてなお終わる気配を見せていない。
 ……鉄道研なんかに入らなければよかったかな。
 広一郎は数時間前からもう何度心の中で繰り返したかわからないフレーズを溜息とともに吐いた。
 この星海高校に入学して三カ月。
 鉄道部に入部したのと同じだけの時間が経っていた。
 疾風怒涛のような新人勧誘のひと月が過ぎ、全校生徒が五千人というこのふざけた学園の生活にも慣れ始め、あまり深く考えないで入った鉄道部でやっていることといえば、いつ果てるともない会議だった。
 いわく。
『どんなにつまらない意見でも耳を傾けるべきである。少なくともファイルの厚みは増すだろう』
『議事中はは自由な発言を求める。ただしすべての発言を記録した後で』
『考えるよりも過去を見よ。そこにない物はこれからもない物である』
『規則一……鉄道部は伝統に重きを置く。 規則二……前例のない場合は規則一を参照せよ』
 等々。
 広一郎はこうした標語とも呪詛の言葉ともつかぬ先人の作品につけ加える文句を考えていた。
『全てについて議論しようと思うなら、発言は必要最小限ですむ』
 つまり……仰せのとおり。

 がらんとした空間が広一郎の頭上にひろがっている。昭和初期の洋風建築。アーチ状の石材の柱の間には緑色を帯びたガラスがはまり、半円形に切りとられた気怠い陽光がそこだけ型を取ったみたいに空気中の埃を乱反射させていた。
 廃止されて三十年にはなる学園電鉄のこの建物を鉄道部が使用している経緯には、学園史の裏面に関わる複雑怪奇な策謀がある……と広一郎は聞かされていた。
 総延長十二キロ、七つの停車場を擁した、学園内を縦走するこの路面電車は、いまやその一部を残して古き良き時代の語り草となった。
 そしてその全てを受け継ぎ、何はともあれ権益と施設と物品を守り続けてきたのが鉄道部なのであった。この団体の伝統至上主義的性格の最大の原因はここにあるのは明かである。
「……まず学園執行部より通達されたスケジュールだが……」
 環状に月桂樹をあしらった部章の縫い取りのある緞帳を背に、壇上の人物が続ける。広田由紀江。理数科三年。鉄道部現部長だ。
 ようやく、今日の中心議題、三週間後に迫った学園祭に話題が移ったようだ。それなりに部屋の中に活気がよみがえる。
 昨年は部の所有していた客車を改造して、メインストリートで本格的なレストランをやったらしい。フランス語研究会の協力を得て、かなり本格的なものになったという。一昨年はどんな手段で集めたのかもしれない怪しげな鉄道物品の大オークション。Nゲージで学園祭期間中に北海道の鉄道運行状況リアルタイムで再現したという年もある。淡々とした調子で部長が続ける。
 偶然室蘭でおきた鉄道事故までを再現したこの催しは、学内でもすでに伝説として数え上げられていた。出所の定かでないゴシップをあなたも知ってるかもしれない。実際の事故がおこったのは鉄道模型が脱線した後だった、と真顔で、あるいは冗談半分に語る者もある。
 ……退屈な会議ね!
 不意に耳元でささやかれた小声に、広一郎は自分の世界から引き戻された。隣の座席に音もさせず滑り込んだのは水谷水紀だ。普段はよく喋るにぎやかな性格だが、ときおり見せるこうした予期せぬ振舞いに広一郎はいつまでも慣れることができない。
 水紀に言わせると、『広一郎がぼおっとしてるのよ』ということになる。親同志が知り合いという長いつき合いのわりに、とりたてて反論しようとしない広一郎の性格にも確かに問題はあるかもしれないが。
 ……今までどうしてたの?
 つられて広一郎も声をひそめる。
 ……本題に入るのはいつもこのくらいの時間でしょ
 ……でも部則にちゃんと、
 ……あら、広一郎もここの体制派になっちゃったの?
 ……そういうわけじゃないけど……
 ……ならいいじゃない
 ……いや、僕の言いたいのはそんなことじゃなくて……
 ……広ちゃん、これからお祭りの出し物を決めるみたいよ
 ……前から言おうと思ってたんだけど……
 ……ほら、みんなの意見を聞いてくれるって
 ……ぼくの話聞いてる?!
「……それでは、この書類の三役案以外にも今年度の企画についてアイディアを出してもらいたいのだが……」書類から自分を取り囲むように座る部員へ顔を向け、広田部長は言った。
 ……だから、前から思ってたんだけど君の態度がね、
水紀は視線を壇上の部長に向けたまましゃべっている。
 ……ねえ、広ちゃん、この間やりたいって言ってたじゃない、なんだっけ資料館の何だかいう……
 ……ちょっと、たのむからさ
 ……そうそう、年代物の路面電車がどうしたとか……
 ……だ・か・ら、ぼくの言いたいのはそんなことじゃなくてね!
「ええっと、そこ」
 広一郎は虚を突かれた。
「そう、そこのきみ。槙君といったか。君の言いたいのはそんなことじゃなく、何だね」
 広田部長が整った眉をぴくりともさせないで、広一郎を指名した。
「ええっと……」
 仕方なく、会議卓に右手をついて起立する。水紀をにらみつけると、うつむいて肩をひくつかせている。口の端が笑いをこらえていた。
 意外な成り行きに、議場の視線が広一郎に集まる。広一郎の心境は、冤罪で絞首台の階段を登る囚人もかくやであった。
「だから、ぼくの言いたい、のは……」
 言葉が詰まる。昔から人前でしゃべるのは苦手なんだ、何だってこんな目に、いや何か言わないと、水紀の奴勝手なことを……。
 ……デ・ン・シャ、でしょ
 水紀が広一郎にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「そう、路面電車です!」
 思わず反射的にこたえる。
 部長が怪訝な表情で先をうながす。どうとでもなれ、と広一郎は思った。
「廃止されている、学園電鉄を……」
「学園電鉄を?」
 ホールいっぱいに広一郎の声が響いた。
「学園電鉄を復旧させたいとおもいます!」

 現実というのは時としてもっとも思いもしない方向へ転がるものだ。
 驚くべきことに、広一郎の意見は候補の最終票決まで残り、言った本人がもっとも信じられないことだったが、今年度の鉄道部の企画として議決されたのだった。


  学園祭五日前 PM12:25 中央食堂

 星海高校の中心部は、静かな内湾を見下ろすなだらかな丘にちょうどてのひらでも広げたみたいに拡がっている。北海道の日本海側、百五十万都市札幌にほど近く、地形の関係か周辺に比べてその気候は穏やかである。
 学生数五千人はだてではない。大正期に遡るその複雑怪奇な設立過程から、文化財ものの木造校舎から近代的な研究棟まで、雑多な建物が思いのほか濃い緑の中に無秩序に建ち並んでいる。戦時中には、大都市を避けて国の研究機関がこの地にのがれてきたという経緯もある。
 普通科、語学科、理数科、家政科、工業科の五つの専攻科と、研究学園都市に指定されたことで増えはじめた研究施設。札幌と小樽には近年移転した付属小中がある。研究施設の人間や教職員、事務職員、関連機関の人々などを合せるとその人口は一万人をこえる。付近の都市からの交通の便も悪いため、そのほとんどが学園内に居住し、まさに学園が一つの街を形成しているといってもよい。もっとも行政区分としてはあくまでN……市の一区画にすぎないのだが。
 大勢の人間がいるということは、それだけの生活があるということでもある。通称メインストリートと呼ばれる学園を縦走する大路のまさに中心にあるのは、大講義棟でも学園図書舘でも総合体育館でもなく食堂だった。そう、中央学生食堂。
 最大収容人員二千人を誇る巨大カフェテリアの一画、丈夫なだけが取りえのプラスチックトレイに納豆定食をのせてやってきたのは槙広一郎である。
 隅に空いた座席を見つけると広一郎はため息をつきながらパイプ椅子に身をあずけた。心なし顔色も悪いようである。連れの友人もいない。
 ふとテーブルを見ると、多種多様なパンフレット、広告、宣伝ビラに混じって、『学園祭をつぶせ!』と大きく印刷されたアジビラが目にはいる。最近かまびすしい反式典派と呼ばれる連中のものらしい。現執行会に不満を持つ急進分子だというのがもっぱらの論調である。学園祭がお流れになるのなら、加担してもいいなと広一郎はぼんやりと思った。すぐに頭を振って考えを打ち消しはしたが。
 おそろしいことに、学園電鉄の復旧計画は、異様にスムーズにすすんでいた。
 学園当局と学園祭実行委員会、および学園執行部への各種許認可。とりあえずボディだけは保存してあった路面電車のオーバーホール、というより無謀とさえいえる雑多なパーツの組み立て。学園祭パレードとの連係、スポンサー集め、特別試乗券の大規模な販売宣伝、廃止路線への一時的な電力供給の手配、エトセトラエトセトラ……。
 一度決定された事項について、鉄道部員の実行能力は目を見張るものがあった。もっと重要だったのは、目立ちこそしなかったが広田部長の采配である。個性的な部員を適切な位置においてまとめ上げる彼女の技量こそが、馬鹿馬鹿しくも大がかりな計画をおしすすめていた。そして当の発案者、槙広一郎君はというと鉄道部の慣習にしたがって総責任者に祭り上げられていた。
 ぼくは一体何をやってるんだ
 葱と納豆をかき回しながら、広一郎がひとりごちる。
 総責任者は完全に形だけの役職だった。広一郎に与えられた実際の仕事は、路面電車復旧班の実働員というものだ。早い話が今回の主役、昭和初期の浪漫溢れる木造電車を組み上げるために、油まみれ汗みどろになる人足の役回りである。
 モーターの換装、疲労部品の交換、コンプレッサーの調整、窓ガラスの張り替え、電装系に至っては有り合わせの部品で一から作り直しである。やることは数え切れないほどあった。
 いや、与えられた仕事をこなすのはそれほど苦痛ではない。実際、彼の心にわだかまっていたのは名前だけの総責任者という立場だった。思いつきで言ってしまっただけなのだ。確かにアイディアは持っていたが、議場で発言するつもりなどまったくなかった。
 本当のところ、ぼくはこんな事をやりたかったのか? ろくに授業にもでずに上の人のいうままに、一日中ほこりまみれになって働いて……しかも自分が言いだしっぺじゃ文句を言うこともできやしない!
 広一郎にとって、鉄道部はいまや巨大な足かせだった。ため息のみを生みだすものと感じられた。しかもそう考える自分に気がつくたびの自己嫌悪付きである。そんなわけで彼が少しばかりナーバスになっていたのはいたしかたのない状況といえた。
 楽しそうに昼食をとっている一般学生にも、やっかみたい気分だった。薄いお茶を一気に流し込み、おおげさに息を吐いてからトレイを手に立ち上がる。気分はどうあれ食事はきれいにたいらげているようだった。

「槙くん!?」
 最近よく聞く声。誰だっけ?
 長い髪を後ろで結い上げた女生徒だ。そっけない様子で大柄な男に手をふると、きびきびとした足取りで広一郎に近づく。
「あ……部長。珍しいですね」
「なんだか心ここにあらずって感じだったわよ」
「部長まで水紀……水谷さんみたいなこと言うんですね」
 回収口に汚れた食器を返しながら、恨みがましい調子でかえす。湯気に霞む洗い場の奥には、数えきれぬほどのパートの主婦たちやアルバイトの学生が殺気だった表情で水仕事をこなしている。
「どう? 復旧班のほうの調子は」
 広田由紀江は並んで歩きながら聞く。男としては小柄な広一郎よりもわずかに背が高い。こうして普通に部長と会話をするのは初めてかもしれないと広一郎は思った。
「どうって、ごぞんじの通り順調ですよ。もっとも組み上げてからの調整のほうが大変だって聞いてますけど」
「そうね、これからが大変よ」
 広田由紀江はその手腕を認めさせることで鉄道部の部長という地位をつかみとった人物である。バックについている勢力の噂が流れたこともあるが、権力を持つ人物には多かれ少なかれつきまとうものだ。彼女はその臭みを露骨にあらわさないだけでも十分に分別を持っているといえた。
「まさかこんな事になるなんて……」
「えぇ?」
「まさかこんな大事になるなんて思っちゃいなかったんです。こんな事なら、発言なんてしなけりゃよかった!」
 二人しかいないという気やすさが広一朗に大胆な発言をさせた。
 由紀江は何か考えるように目を少し上に向け言葉を選ぶように言った。
「それじゃあ、今君のやっていることは、君自身の意志じゃないのかしら?」
「そうじゃないんです。ただ、重荷なんです。ぼくには部長みたいに何でもこなす能力なんてないし、水紀にはいつもぼうっとしてるって言われるし」
「でも」
 と由紀江が広一郎の言葉をさえぎる。
「でも、今はもう動きだした。どんな形にせよケリは着けなくちゃならない。……そうでしょ」
「……だから悩んでんじゃないですか」
 由紀江は思いのほか明るく笑って言う。
「ははは。そうね。とにかくあと一週間よ大変なのは。大丈夫きっと成功するわ」
 話しながらかなりの距離を歩いていた。六月の陽光に映えて、植込みの新緑が日に日に深みをおびている。二人は中央食堂から、鉄道部室のある山の手の方へ向かっていた。メインストリートはロータリーで大きくふくらみ、中心は噴水もあるちょっとした公園になっている。
「あれ、応援団の連中ですね」
 広場の中心で二十人ほどの学生服の一団が何やら宣伝活動を行なっているらしい。そう大柄ではないが、目つきの鋭そうなのがメガホンを手にアジをぶっている。
「……よって、来たる学園祭は、現執行委のうち上げた大掛かりな事きわまりない目くらましである、と我々は断ずるものである。各専攻の融和と協力などという、奴らの唱える題目など幻想だ。普通科指導主義派の言いなりになっている執行委員会、その下部団体である式典実行委員会のやることが信じられようか。奴らの目的は『指導派』の実権を強化することであり、学園祭というめくらましの影で他専攻への搾取の体制を強めていることは明白である。諸君、目を覚ませ! 学園祭はボイコットするべきである。意志あるものは我々と共に学園祭を粉砕しようではないか!」
 たすきを掛けた無表情な男からアジビラを有無を言わさず押しつけられる。学食にあったのと同じものだ。粗悪な紙に黒ぐろとした文字が躍っている。
「援団って現体制寄りだって聞きましたけどね?」
 意味もなくビラを折り畳みながら広一郎が言う。
「まあ最近じゃ色々あるみたいよ」
 気のなさげな素振りで由紀江は応えたが、仮にも有力な部活の部長なのだ。彼女が何も知らないわけはない。
「でも、いよいよお祭りね」
「なんのことです?」
 由紀江は広一郎に顔を向け、意味ありげな表情を見せた。
「彼らも……反式典派も学園祭あっての存在だってことよ」


  学園祭三日前 PM9:52
    鉄道部山上車庫

「本当にここまで出来るなんてね……」
 水谷水紀は感にたえないような口調でつぶやいた。
 路面電車も後は外装の飾り付けを残すのみ。動力さえ入れば動きだすところまで完成した。
 作業班のメカニックたちは連日連夜の突貫工事から解放され、隣の仮眠室に山と折り重なり睡眠を貪っている。渉外でスポンサーを集めていた水紀は、ボディーに貼り付ける広告の件で遠くこの作業現場までやってきているのだった。誰かここの現場責任者と話を着けなければならないのだが、疲れきって幸せそうに眠り込んでいる男達の姿を見てはかわいそうで叩き起こす気にはなれなかった。いや、汗くさい更衣室のような部屋の中に足を踏み入れることすら出来なかったというのが正解か。
 頼みの綱の広一郎も見あたらないようだった。連日のようにここに詰めていると聞いていたのだが。
「大体こんなものをほったらかしにしておくなんて無用心なのよね」
 誰とはなしに呟き、起きている人は居ないかと水紀は車庫の中に目を転じた。
 煌々と照明の輝くガレージの中、丸みをおびたフォルムの木造電車が奇蹟の様に光を受けていた。天井から車高の倍は高さのあるパンタグラフを突きだし、張り替えられたぴかぴかのガラスは、風をきって走るのを今から待ちかねているようだ。
 樽を横に引き伸ばしたような車体は、正面から見ると人の顔のような愛嬌がある。大きなガラス窓がぱっちりとした目で、丸いヘッドライトが鼻だ。と、その大きな顔から、誰かが顔を覗かせた。
「たいしたものよねぇ、この電車は!」
「広田部長!」
 あきっぱなしになっていた乗降口から顔を出したのは広田由紀江だった。
「全然気がつかなかった。何をしてるんです?」
「貴女と同じよ。電車が気になったの」
 水紀は勢いをつけてタラップを駆け登る。先刻から中に入ってみたくて仕方がなかったのだ。
「うわあ」
 六十年前の車体だと聞いていた。当然内装も入れかえたのだと思っていたのだが、中は古びて黒ずんだ木が、一種独特の風合いを醸し出していた。磨き立てられた金属部分との対比が心地好い。真鍮で縁取られた操縦板が丸みをおびた鈍い光を発している。水紀にはこの電車の機構はよく判らないが、意外にシンプルなのに驚いた。
「貴女の所為で大変な目にあったって、槙くんが言ってたわよ」
「いいんですよ。あいつは少し苦労したほうがいいんです。私が言ってやらなきゃ自分じゃ何もしようとしないんだから」
「いいわね、あなたたちは」
 由紀江が可笑しそうに言い添える。
「?」
「いいのよ、こっちの事」
 後部車両を点検するように歩きだした由紀江と入れ替わりに、水紀はここだけは完全に新品の運転席に腰をおろす。
「それはそうと、部長はいつまでもこんなところに居ていいんですか?」
 由紀江が小振りの時計に目を落とす。十時数分前。
「そうね……そろそろ部室に戻らないと……」
「大変だ!」
 開いたままだった車庫の扉から、二年生の男子部員がかけこんでくる。
「どうした! ここの連中なら仮眠室だ」由紀江が,凛とした声で応える。
「ああ、部長! こんなところに! いや、大変なんです。とにかくニュースを!」

「入るぞ!」
 男臭い仮眠室を躊躇せず開けると由紀江は灯りをつけた。例の二年生部員は足で男どもを蹴り起こしつつ、ラジカセのバンドを学内のミニFM局にあわせる。
『……繰り返します、緊急ニュースを繰り返します。本日午後九時二十分ごろ、学園中央区執行委員会棟内、式典実行委員会室に発煙筒を手にした暴徒が押し入りました。混乱に乗じて黒板にスプレーでメッセージを残したほか、式典委員長ほか二名が軽傷を負った模様です。現在暴徒は逃亡し、知らせを受けた執行委員会は対策会議を開くとともに、関係者のすみやかな自首を求めています! なお各委員会、クラス、部活動、サークルの代表者はただちに執行委員会棟まで出頭してください。こちらはSBC。ただいま緊急ニュースをお送り……いや、失礼。新しい情報が入りました。委員会室に残されたメッセージが公開されました。ええ、読み上げます。我々はこのたびの式典を心待ちにしている者たちである。今日は軽い挨拶といったところだ。前夜祭には比べものにならないほど素敵なプレゼントをお贈りしよう 繰り返します……』


(前編了)



この作品の後編はラフな下書きしか残されていない。以下に掲載する。


  学園祭三日前 PM10:02 引き続き、鉄道部山上車庫

 寝ぼけ眼の男どもは暴徒への怒声と、いつもイマイチ切込みの甘いSBCへの不満と、なぜか快哉を叫ぶ歓声を同時にぶちまけた。部長は滅多に見られない迫力で部員を怒鳴りつけ、なにやら二言三言早口でいい残すとくだんの二年生を連れて足早に立ち去った。

 私こと水谷水紀はガレージの警備要員を残して、興奮した男たちと共に部室まで戻って待機するはめになった。


  学園祭三日前 PM1:15

 物語は少し時をさかのぼり、学園祭三日前の正午過ぎである。

 広一郎は男子寮に着替えを取りに出かけ、その帰り道に応援団の男と密会する由紀江を目撃する。この時点では男の顔は見えない。

 不審に思いはしたが、それ以上追跡することもできず広一郎は山上車庫へと戻る。


  学園祭三日前 PM9:18

 山上車庫での仕事を終えた広一郎は、電話でつかまらない水紀を探して学園の中央部まで降りてきている。

 心当たりを一巡りしても見つからない水紀にいらつきながらもけなげに探し回る広一郎。あきらめて部室へ戻ろうとするところにあやしげな男達を見かける。その中に先の男の姿を発見。今度こそはと思い後を着け、式典実行委テロに巻き込まれる。参考人として執行委員会に取り押さえられる。


  学園祭二日前 PM3:30 第二女子寮215号室

 学園は昨夜の熱気はおさまり、とりあえずは平穏を保っている。執行部は学園祭の断固開催を宣言する。

 広一郎はようやく執行委員会から解放されて部屋に戻っていた水紀を訪ねてくる。電話で呼び出す。
 広一郎の解放の、その裏で立ち回ったのは鉄道部長である。

 広一郎は応援団の男と、部長の関係が気にかかってしようがない。水紀は彼女にはアリバイがあったというが、それでも彼女はなぜテログループと接触を持っていたのかという疑問が残る。部長の秘密を探ろうとする広一郎に水紀も加わることになる。

 直接部長に問いただす手もあるが、偶然姿を見かけた程度の理由で決めつけるわけにもいかないし、当然はぐらかされてしまう。強力な証拠を見つけなくてはならない。


  学園祭二日前 PM11:30 第二女子寮504号室

 広一郎と水紀は由紀江の部屋へ侵入をこころみる。部長は前日から引き続き部室と実行委、執行部の往復で帰ってこない。同室の女子生徒も料理研の仕込みで今日はいないと調べを着ける。鍵は当然掛かっている。寮看の部屋には当然マスターキーがあるが、持ち出すのは至難の業だ。ダクトより侵入することとする。それより問題なのは、男子禁制の夜の女子寮にどうやって侵入するかということである。
 とりあえず水紀の部屋までは外から窓で入ることとする。水紀の手引きで水紀と同室の寮生も抱き込んでの侵入となる。当然噂の立つのを口止めしなくてはならない。頭の痛いところである。
 広一郎については、何だろうと思っていた包みからかつらと女物の衣装を持ちだし、変装しろと迫る。しぶしぶ承知する広一郎。
 部長の部屋のある五階の、水紀の友人の部屋からダクトにもぐり込む。その部屋の鍵は水紀が何だかんだといって借りてある。

 なんとか部長の部屋へ侵入成功。うっとうしいのでセミロングのかつらははずしてしまった。幸か不幸か、いくばくもせずに反式典派の学園祭資料が置かれてあるのを発見する。広一郎はこれで部長の疑惑は固まったと思う。後の問題はこれをどういう形で部長に働きかけるかということである。


  学園祭前日 AM12:15 第二女子寮504号室

 資料の内容は暗号化されているため、一見してわからない。公開野点のお知らせ、茶道部。中を覗いてみると、どうやら学園祭前夜祭に大規模な混乱を引き起こす算段であるらしい。作戦名は「TP(ティー・パーティー)」、作戦部隊は「茶道部」と呼称することと記されている。しかしその実態は応援団であろう事がわかる。

 この資料を持って、部長と直談判するという選択。これが一番だとは思うが、部屋に忍びこんだことがばれてしまうしなあ。実際やっちまってから言うのもなんだが。
 資料を学祭実行委に持っていく選択。部長のことは明かそうかどうしようか。明かせば明白な裏切り行為だし、明かさなければ自分が疑われる。
 応援団に直接やめさせに行く。よそうぜ、正義の味方じゃないんだから。
 でもこのままじゃ学園祭が潰されちまう。ところで俺は何で文化祭についてこんなにムキになってるんだ?


  学園祭前日 AM12:32 第二女子寮

 ここで由紀江と同室の佐東蛍子さんが帰ってくる。女子寮の入口を抜け、スリッパに履きかえ、504号室に近付いてくる……。


  学園祭前日 AM12:35 第二女子寮504号室
 水紀は帰りはそのままドアから出れば、オートロックだし大丈夫という。よし、出ようぜ、とドアを開けると見慣れぬ女子生徒が。あら、由紀江帰ってたの……と向こうは言いかけ顔が引きつる。広一郎は重大な事に気がつく。かつらを忘れていた! とっさにふりむくと水紀がかつらを持ったまま硬直している。
 響きわたる悲鳴。おとこよぉー!! かんだかい悲鳴が響きわたる。

 万事休す。なにせ五階である。これではセーラー服を着た変態だ。広一郎は、興奮した寮生をかきわけ、寮看によって発令された捜査網を逃げなくてはならない。
 広一郎はあまりの絶望感に視界がブラックアウトする感覚を味わいつつも、無我夢中で走り出した。


  学園祭前日 AM9:32 鉄道部部室

 夜明け前に、死ぬ思いで部室までたどり着いた広一郎。半ば死んだも同然の様子でソファに横たわっている。奇抜な服装がさいわいしたのか、広一郎の名前は割れていないようだ(第二女子寮は三年生と二年生の一部が主たる住人である)。
 周りの部員も、まさか昨夜の女子寮痴漢魔が広一郎だとは思いもしない。広一郎もここは下手に逃げ隠れせず、堂々としているのが正解だと考える。しかし昨夜のことを思い出すと考えるだにぐったりとしてくる。不審気に声をかけてくる部員達に、から元気を出して見せる広一郎。

 水紀がやってくる。彼女は周りの騒動に乗じてうまく自分の部屋へ逃げ帰ったのだという。同室の子に他言無用の因果を含めるのに、札幌でのコンサートチケットを奢るはめに。冷たいと文句をつける広一郎に謝りつつも、軽率さをなじる。
 で、どうするの、と広一郎に尋ねる水紀。あの騒ぎの中で部屋から持ち出した資料はぼろぼろになり、表紙と残り数枚になっていた。これでは何の資料だか見当もつかない。。
 振り出しに戻ったわけだ。しかし部長に対する疑惑はいっそう深いものになっている。今日も部長は忙しく飛び回っているらしく、まだ部室には姿を見せていない。それでも誰が何をすればよいのか、しっかりと采配をとっているあたりはさすがというべきだった。

 この暗号化された資料の断片を持って、部長を問い詰めようか。しかしどうやって。
 重要な部分は訳のわからない文字で置き換えられているとはいえ、どうやら資料には前夜祭で起こす騒動の準備について書かれているらしい。具体的な内容は読み出すことができない。それでも、それぞれ何班かに分かれて騒動の引き金を起こす者、騒動に乗じて前夜祭の指導権を握る者、前夜祭が混乱して他の場所が手薄になっている隙に主要な会場の破壊をおこなう者……などが動くと記されている。これじゃ学園祭は目茶苦茶だ。

 悩むうちに強引な先輩によって、広一郎は電線敷設の肉体労働に連れ出されてしまう。資料は水紀があずかる。「私がなんとかするから、広ちゃんは頑張ってね!」


  学園祭前日 AM12:40 下学園通り 喫茶店『3603号室』

 探偵研の友人と彼らの行き着けの喫茶店で会う、水紀。例の資料から暗号化された部分だけを抜きだしその解読ができないか聞いてみるのだ。
 学園祭前日だからというわけだろうか、午前中から喫茶店は結構込み合っていた。
 根室ヒロノブはすでに来ていた。何やら本をよんでいる。どうせまた国際謀略物、それもハードボイルドがかった奴に違いない。と言うより彼を見かける時本を手放している姿を見たことがないような気すら、水紀はする。同じような本ばかりよんでいて、よく読むものがなくならないものだ。

 水紀がメモを差し出すと、意外に手早くヒロノブは暗号を解読してのけた。一文字づつ文字をずらすという、彼に言わせれば古典的な手法である。文字をずらすコードにいろは歌を使っているのがちょっと変わってるけどね。

 ヒロノブに言われたとおりに水紀は文字を入れ換えて読んでみる。『二〇〇〇、テツドウブよりのデンシャ、会場にゲキトツ…………!』


  学園祭前日 PM1:40 旧学園鉄道、第五ジャンクション 

 こうなってはしようがない。水紀は広一郎とおちあい、部長を問い詰めることにする。事と次第によっては、この文書を執行部へ持っていき、介入してもらうことも辞さないつもりである。
 広一郎はまだ路線の最終チェックの最中だったが、後は仲間にまかせて走り出す。もちろんこの時点では迂濶なことは言えないので理由はごまかすが。「何だデートかよ!」「そう(だ)よ!」


  学園祭前日 PM2:10 鉄道部部室

 鉄道部室内は阿鼻叫喚の巷と化している。明日が学園祭初日なのだ、無理もない。

 手近にいた部員から部長の居場所を聞き出す。「さっき山上車庫に行くといってましたあ」


  学園祭前日 PM2:30 鉄道部山上車庫

 二人は一台の自転車に乗って、駆けつける。
 車庫の方は昨日で作業はほとんど終了しているため人気が少ない。暗いガレージには引込線が設けられ、明日のパレードを心待ちにするように路面電車が停車している。路線さえ整備し終われば今すぐにでも走り出せる準備が整っているのだ。パレードは明日の正午、それに先立って今夕試運転がおこなわれる予定であった。まさかその試運転が狙われるなんて……。

 ガレージの二階に設けられた一室が、電車管制室として使用される。もちろんたった一本の列車のために集中管理など必要ないから、電車と各駅間の無線通信で列車は運行する。運行管理の訓練はとうに始められていたし、どこをどうしたのかいくら学内とはいえ、学生が電車を運転する許可を部長は取り付けていた。
 管制室の前に立った二人は、ドアの向こうから低い声の数人の会話を聞く。一つは女性、もう一つは複数の男達だ。
 女性の声はおそらく部長だ。内容は良く聞き取れないが、男達の声は時に嘲りの調子を帯びる。たまらず広一郎は部屋へ駆け込む。「やっやめろ! この……テロリスト!」
 声が震えたのは、まあ仕方がない。中にはこの学園には珍しい学生服の男が四人。応援団だ。
「!」
 由紀江は広一郎を見て意外そうな表情を見せる。
 男達、突然の闖入者に驚くが相手が小柄な男一人と少女だと見てとると余裕を取り戻す。
「そうか、もう我々の正体はお見通しってわけか」少しは頭のきれそうな中肉中背が妙に嬉しそうに言う。
「なに、おたくの部長さんが私らとの約束を破ろうとなさるんでね」
 こんどはやけに色黒の巨漢だ。どうもしゃべり口調が白々しい。できの悪いエキストラだ、広一郎は場違いなことをぼんやり考えていた。
「部長、やっぱり……」
 広一郎の後ろに隠れるようにして水紀がつぶやく。
 由紀江は沈痛な、だが真摯な表情で何も言わない。
「ま、こうなった以上あんたらには少しの間黙っててもらわにゃいかんな……」
 知らぬ間に後ろにも一人男が立ちドアを閉めている。すてばちに広一郎は首謀格の男に殴りかかるが、軽くいなされ二撃目を繰り出すこともできず、のびてしまう。しかもなぐりかたが下手くそだからダメージも大きい。
 朦朧とした意識の中彼はかつがれ、女性達は手早く口を押さえられると、男達に脅されて車庫裏の物置に軟禁される。どのみち叫んでもこのとき車庫には彼らしかいなかったのだが。


  学園祭前日 PM4:10 山上車庫、保管庫

 古びた除雪道具やら掃除道具が雑多に積まれた室内である。放置されてから何年になるのか見当もつかないものもある。車庫自体は今でもほかにも何台か保有する列車の保管庫として、また学園祭以外にこれは定例で年に二回おこなわれる卒業式と修学旅行の特別列車のたびに(在来線から引き込まれるのである!)活用されていたが、ここは使われなくなって久しいようだった。

 ようやく両手を縛られていた紐を切り、さるぐつわも解いた由紀江が水紀を解放し、広一郎を起こして、紐を切りにかかった。その気配で広一郎も意識を取り戻す。
 広一郎がとりあえず大丈夫そうなのを見て安心した水紀、部長に向き直る。
「早速だけど、説明して欲しいわ」
「そう……当然ね、どこから話そうかしら」
 広一郎、取り上げられていなかった例の書類をポケットから出す。
「あなたたちは知っていたのね……」言ってから、何かにひらめいた様子。「ひょっとして昨日の騒ぎはあなたたちが……」
 二人とも図星を指されて何も言えない。いくらこの状況が由紀江のせいだとはいえ、部屋に忍び込んだ負い目は事実。
 しぶしぶ頷く二人に、全てを悟った由紀江は驚きの表情を浮かべ、次いで押さえ切れない笑いに肩を震わせだす。
「……いや、ごめん、ごめんなさい。槙くんの、その、……姿を想像すると、押さえ切れなくて……」
「ぶちょおぉ!!」思わずハモる二人。

 ようやく和やかな空気が戻る。なんにせよ由紀江があの男達と反目していたのは事実なのだ。由紀江はかいつまんで話しだす。
 最前の一幕は、由紀江にしてみれば最後の演技。あとは由紀江自身が試運転に乗り込み、暴走を食い止める手筈になっていた。この計画は広一郎の手にした資料のとおり、反式典派を名乗る連中が指揮していた。そのバックには現在の体制に不満を持ち、権力を欲している者の存在があること(具体的な名前はとうとう口に出なかったが)。今回の学園祭をぶち壊せば、当然現体制に対する風当たりは強くなるだろうということ。応援団はむしろその思想的な背景を巧みに利用された部分が強いこと。もちろん買収された団員もいるだろうが、自分がこの資料を手に入れたのは、個人的な縁故の信用できる筋のものであること。
「それじゃあ、なぜ奴らの陰謀がはっきりした時点で事を公にしなかったんですか!」広一郎は思わず声を荒げる。
 由紀江はじっと二人を見つめ、一言一言静かに、だが力強く言った。
「私は学園祭を……いいえ、路面電車を走らせるという計画をどうしても成功させたかったからよ」
「事を公にすれば確かにテロは未然に防げるかも知れないけれど、……私たちの電車は一切差し止められるわ。電車を暴走させられる危険がある以上、前夜祭のテロを防げたところで実行委がその後の電車の運行も認めるとは考えられない」二人の反応を確かめるように一度言葉を切ると、由紀江はあらためて話しだした。
「それにもしも反式典派に電車を使うことをあきらめさせたところで、かれらは他の方法を取るだけのこと。実際にアクションを起こすまでは誰も反式典派に手を出すことができない……現在の校則はそうなってるのよ。私の採るべき道は一つしかなかった。彼らに協力するふりを装って、反式典派も、そしてあなたたち鉄道部員のみんなも欺き通すこと」
「……それでも失敗するかも知れないじゃない。電車が人で一杯の大講堂に激突したら……!」水紀がたまりかねたように叫ぶ。
「そんな事はさせないわ、……その時は…………」
「その時は自分一人で責任を取るなんておっしゃるんじゃないでしょうね」広一郎の静かな口調に、由紀江は伏せていた瞳を上げた。
「もしも講堂で死傷者が出たらどうするんだ。あなた一人の命でだって購えるものか。どうして……どうして一人で背負い込もうなんて莫迦な事を考えたんですか!」広一郎は我ながらここまで激しやすいたちだとは思ってもみなかった。昨日の晩から自分はどうかしている。
「部長、僕のことを一体何だと思っていたんです?」目を見開いて見つめる由紀江に向かって、広一郎はまさに思い通りの笑みを作って見せることができた。「僕は学園祭の企画責任者なんですよ」


  学園祭前日 PM4:40 鉄道部、山上車庫

「そろそろうちの部員の人目もあるはずだし、奴らも見張りを立てているとは思えないけど……」
 案の上、男達の姿は見えなかった。それでも3人はあたりを気にしつつガレージ内に戻る。まだ他の部員には秘密にしておいた方がいい。
 反式典派は試運転のため午後五時四十五分に山上車庫を出る予定の電車を狙う。出発後にブレーキを遠隔爆破、下り坂ゆえに自力では止まれない電車を学園中央駅近くの急カーブで脱輪させる。その目と鼻の先に、大講堂があるというわけだった。大講堂は最近改修が施されたばかりでエントランス部分は天井まで覆うガラス張りになっている。いくら耐震設計の丈夫なものを使っていたとしても、恐ろしいスピードで激突する数十トンの質量に耐えきれるとは思えない。その先は推して知るべし、である。

 試運転の準備のため、すでにガレージの中では十人ほどのメカニック達が忙しそうに立ち働いていた。物陰からその様子を眺め、三人は顔を見合わせる。
 ……とりあえずどう動くか決めましょ
 由紀江が小声で言いかけたとたん、間の抜けた大声が響く。
「あれっ、部長。もう前夜祭の方に行ってるんじゃなかったんですか?」三人は飛び上がるほど驚いたが、大声の主は場違いに現れた三人に戸惑いつつものんびりとしたものである。復旧班の二年生部員だ。
「いっいいえ、やっぱり電車の方が気になったのよ。・・二人もね」部長の目配せに広一郎と水紀はぶんぶんとうなずく。
「で、そうね、そう。じつは会場の人達には黙って出てきちゃったのよ、こんな所にいるのがばれると後でうるさいから、みんなには黙ってて頂戴」
「そういうもんなんですか。それは構いませんけどね。せっかくだから試運転は見てってくださいよ。この車庫にいりゃ会場の奴らにゃわかりゃしませんって」
「もう少ししたら行くわ。くれぐれも下へ私がいるって電話したりしたらだめよ」
 あくまで人のよさそうな男子生徒はそれでも急がしそうに作業に戻った。
 ……部長、どうするつもりだったんですか
 広一郎は小声で由紀江に囁く
 ……もうタイムリミットまで一時間もありませんよ
 ……今から試運転を止めさせても、反式典派に作戦の練り直しの時間を与えるだけよ。じつはもう打ち合わせはできてるのよ
 ……打ち合わせ?
 ……例の情報提供者。彼が式典実行委と組んで捕り物劇を演じてくれるはずよ。もちろん実行委の方には電車転覆の作戦はオフレコでね。ぎりぎりまで奴らの作戦を進めさせて、寸前で電車を停める。時刻通りに事の運ばなかった反式典派が浮足立ったところを未然に抑えるってわけ
 ……そんなにうまくいくかしら
 水紀がもっともな意見を述べる。
 ……いいのよ。鉄道部の路面電車が災厄の引き金にならなければ。
 由紀江の説明が続く。おそらく反式典派はブレーキの電気系統に細工を施しているだろうと思われた。通常このタイプの路面電車は進行方向とは逆にモーターを回す力を加えることで、スピードを落としたり、あるいは後ろ向きに走行させたりする。つまり、走行中にモーターを止めることで後は慣性の力に従って車体は下り坂を突進して行くわけである。
 ……おそらくは操作パネルの下、操作幹とモーターをつなぐ配線を狙ってくる。無線か……ひょっとしたら時限式の火薬かなにかが仕掛けられていると見て間違いないわ。いい、それじゃ分担を決めるわよ


  学園祭前日 PM5:45 路面電車

 ついに電車は動き出した。暮色の濃いなだらかな景色が、徐々に早さを増して流れていく。
 乗客は広一郎と水紀のみ。結局、他の部員には内密のまま行動は移された。由紀江が電車に乗ってもよかったのだが、事後処理のことを考えると彼女には地上にいてもらった方が都合がいいと全員が考えたからだ。
「槙君、水谷君順調ですか。」
 無線のスピーカーから男子部員の声が響く。
「順調です。状況の方は変わりありません……」
 状況というのは三人の間の取り決めだ。爆弾発見で、『状況』好転。通信担当の部員のその後ろでは由紀江が耳をすませている。
 水紀が話している間、広一郎はその下に屈みこんで孤独な格闘を演じていた。操縦まではしなくてもいいとはいえ、揺れる上にまさに稼働している部品が相手である。最低の作業環境といってよかった。さまざまな配線が入り乱れている上、うかつに触ることもできない。下手なことをして爆発でもさせたら水の泡。しかも時間は恐ろしく限られている。
 広一郎の目に、黒いビニールテープが入った。えらく粗雑な巻き方の上に、位置が不自然だ。慎重に解く。
「……あった!」
 思わず声が出る。単四電池に銅線がぐるぐると巻き付けられている。おそらく、これだ。
「『状況』好転! 運行も正常です」
 水紀の声が弾む。
「……そいつはよかった、水谷さん現在の速度は?」
 事情を知らない男子部員は訝しげな口調ながらも、やはり自分達の組み上げた電車が順調に動いているのが嬉しいのだ。軽口がついて出る。
「えっと、スピードは三五……あ六キロになりました。どうぞ」
「この先下り傾斜がきつくなります。ブレーキをかけて速度を調節してください」
 あくまで正常な無線交信を続けるのは反式典派を欺くためだ。この無線は傍受されている恐れがある。彼らが自分達の目論みの不首尾に終わったのを知るのが遅いほど、広一郎達は着実な勝利を得ることができるのだった。
 シュカン!
 突然、爆弾処理用に持ち込んだ古い空きシリンダーの中でくだんの乾電池が破裂した。思ったよりもくぐもった軽い音だった。拍子抜けしたが、これで完全に反式典派を出し抜いたのだ。
「やった……」
 それまでシリンダーの蓋を足で踏みつけていた広一郎は、どっと押し寄せる安堵感に運転席横の座席に倒れこんだ。
 学園中央部まで、まだ距離がある。あとは適当に理由をつけて電車を停めればいい。本当にテロが起こるならなおさらだ。危険な街中まで行って、みすみす大切な電車を傷つけることもない。
「……広ちゃん! 聞いてる!?」
 水紀の切迫した声に広一郎はわれに返った。呆けていたのはほんの数秒のようだ。
「そうだそろそろどこかの引込線に入って車庫に戻った方がいい……」
「違うの! ハンドルが……スピードが落ちないのよ!」
 肩口で切りそろえられた髪を振って水紀がふりむく。広一郎は両肩をぐいと押されたかのような眩暈を感じた。ショックのためか、あるいは……。
「馬鹿な!」干上がったのどで叫ぶと運転席へかけよる。
 ハンドルにいつもの持ちざわりがない。モーターの逆回転方向にいっぱいに切り返しても駆動部に連動する感覚がない。

「ところで……」不意に気がついて広一郎が訪ねる。「部長、さっき応援団の男達と話が違うなんて言ってましたよね?」
「ああ、そのことね。あの人達、私に計画が筒抜けなのも知らないで、始めはお座敷列車にして借り切りたいから畳をひかせてくれ、なんて言ってたのよ」由紀江は、誰に対してか嘲りの入った笑いをこぼした。

繭の日々

 今でも時に思うのだ。

 あの娘のことを。

 何時までも続く、あの夏の日のことを。


    一

 いま、わたしの手元には一枚の古びた写真がのこされている。大切に保管されていたらしいその白黒写真からは、少女が一人、はにかんだ様なそれでいて空に視線をなげかけている様な不思議な表情で、こちらに微笑みかけている。
 おそろしく古くさい型のセーラー服に身をつつんだ彼女は、咲き初めた桜を背にいかにも記念写真といった様子で真新しい皮鞄を手にたたずんでいる。けっして華やいだ姿ではないが、見るものをほっとさせるような、生き生きとした呼気を感じさせる雰囲気を少女は持っている。気のせいか彼女の周りだけ光が増しているような印象さえ覚える。
 いささか奇妙な経緯をたどってわたしのもとに舞い込んできたこの写真については、もう一年も前から話し出さなければならない。


    二

 高校を卒業した年の夏。いろいろあってわたしは一人、山あいへと旅にでていた。
 いろいろというのは、受験にドロップアウトしかけた末に、もぐりこんだ学校に自分の居場所を見つけられないこととか、数年来の家庭のごたごたからいい加減逃れたかったこととか、まあそんなこんなのいろいろだった。
 今にして思えば、そのくらいで思い詰めて思い詰めた自分に酔って、よりによって一人旅にでようだなどと考えた陳腐なセンチメンタリズムに情けなさのあまり泣けてくるような気分だ。
 ともあれその頃のわたしは自分の存在価値というものに癒し難い不安を抱えていた。人との交わりを避けるばかりに、旅の行く先はしぜんと人の少ない山中へと向けられた。
 移動手段はマウンテンバイクと自分の足だけ。その日泊まる宿もとらず、バイクに括り付けたシュラフが簡易寝台となった。都内のアパートを出発したわたしは、幹線道路を大都市沿いに行く気にもなれずとりあえず川を上流にたどるコースをとった。
 街からの脱出が急務だった。
 案外早く町並みは絶え、かわりに青々とした水田が視界にひろがっては流れてゆく。しばらくスポーツから遠ざかっていた身体に登り勾配はきつかったが、行く先も期間も決めぬ旅をマイペースに進めることは忘れなかった。
 マウンテンバイクはオフロード用のタイヤを履いてある。ところどころ舗装されていないところもあり、道は悪かったが山あいを縫う古い街道をゆくことにわたしは決めた。


    三

 その小さな、山懐に抱かれた町にたどり着いたのは、三日目のことだったろうか。終点らしい大きくて古びた駅の前の通りには、意外なほど立派な商店街が広がっている。石造りの見るからに戦前の建物であるらしい銀行が目をひく。
 そろそろ日暮れが近づいていた。バイクを手で押しながら、夕餉の買物客で込み合う店々の前をゆっくりと駅へ歩いてゆく。
 ふいにこのあたりには昔小さな城があったことを思い出した。なるほど家々の屋根は黒塗りの瓦で覆われ、石造りの水路が緩やかに傾斜した通りをはしっている。よく手入れされた庭木と年月の中で踏み固められた小路が、陰影にとんだ町並みをつくりだしていた。
 店頭にプラスチックの篭を積み上げたスーパーストアや、真新しい洋品店はこの町にあってはかえって異質なもののように感じられる。
 総じて古い建物の方が造りが立派なようだった。気をつけて見ると、しっかりとした外観でもいまは使われていない建物が多い。町に漂うどこか停滞したような雰囲気はこのあたりから発しているのかも知れなかった。

 線路はやはりこの駅で終わりになっていた。
 たった一人残っていた若い駅員から駅前のベンチで夜を明かす了承を得ると、今日やるべきことはもう終いだった。
 二本あるホームは片側しか使われていない様子だった。錆の浮いたレールは背の高い雑草に被われ、向かいのホームには二十年は前の風邪薬の広告の描かれたベンチが、夕日をあびて野ざらしになっていた。
「へえ、よく親御さんが許してくれたもんだなあ」
 この町の生まれだと語った気の良さそうな駅員は退屈だったようで、旅の無計画さを聞いて大げさに驚いた。
 小柄なわたしを見て高校生ととった節もあったが、あんまり感心してくれるのが気恥ずかしくて訂正する機会も失っていた。
「あの、この先はどうなっているんですか」
 廃線になったとはいえ、かつてはまだ線路が続いていたらしい。赤錆びた貨物車が置き去りにされている方向には、『のまつり』との表示がかかっている。
 野祭、と書くらしかった。
 戦前には何かの鉱脈があって栄えていたということだ。この町に活気がなくなってきたのも、鉱山が閉鎖されてからだと駅員は言った。十二年前に鉄道が廃止されて以来、野祭にあるのは千人に満たないの集落と小学校だけだという。
「もし野祭に行くのなら……」
 われしらず熱心に話を聞いていたわたしに、駅員が先回りして言った。
「もし野祭に行くのなら、『先生』を訪ねるといい」
「先生? 小学校のですか」
「そう。いや、もう教鞭は執ってなかったかな。でもこのあたりのことに一番詳しいのはあの人だろうから」

 べつにこの町の郷土史を知りたいわけではなかったが、野祭という言葉の響きには、はじめて見たときから惹かれるものがあった。駅員に道を聞き、野坂という名を教えられた。行く先を決めない旅にいい加減厭きてきていたわたしにとって、野坂『先生』を訪ねるという目的はちょっとしたアクセントをつけてくれそうだった。明日気がのらなければ、いかずともよいのだ。

 周囲を山に囲まれたこの町では、夕方から夜への移り変わりは速やかだった。ひんやりと湿った冷気が山からおりてきて、クーラーなしでは眠ることもできない、都会の寝苦しさを忘れそうだ。
 携帯用の虫除けを焚くと、シュラフにもぐり込む。じっとしていると駅舎の裏の山から、始終何かが崩れるような、大きな物が斜面を滑り落ちるような音が聞こえてくる。物音は近くなり遠くなりしつつ、途絶えることがないように思えた。結局何が原因か思い当たることはなかった。『山鳴り』という言葉を知ったのは、旅を終えてしばらくしてからのことだ。
 固いベンチにうずくまって、満月に近い月を眺めているうちに眠ってしまったようだ。不思議とその夜は街のことを思い起こさなかった。


    四

 翌日もうんざりするほどの良い天気だった。この旅をはじめてから雨に祟られたのは出発の朝ぐらいのものだ。
 しかし峰から吹きおろす風は頬に心地よく、街中のアスファルトに塗り込められるような暑さとは、過ごし易さの点で比べ物にならない。
 朝目覚めても例の野祭へ行こうという気は失せなかった。いまにして思えば、わたしはもうこの時分から自分の意思以外の力を感じていたのかも知れなかった。
 バスがやっとすれちがえるといった感じの道が、幅の狭い川と並走してはしっている。左手の山側からは木々が迫り、蝉の声が驚くほどのバリエイションをもって森を包んでいる。何かの拍子にふっと蝉の声が止むと、あまりの静かさにかえって耳の奥が痺れるような気分になる。
 野祭まで、自動車でも小一時間はかかるということだった。わたしはペース配分を考え、いつもよりゆっくりと山道を走っていった。

 野祭へ向かうには一応は舗装されている道をそれ、踏み固められた砂利道を山へ折れなければならない。それでもバスだけは通っているそうで、マウンテンバイクの苦になるような道ではない。
 いつしかわたしは野祭に入っていたようだ。両側の木々がまばらになり、行く手のなだらかな山の斜面に畑や軒の低い家屋が見える。
 サドルから腰を浮かせて、一際急になった斜面を駆けのぼる。道はそこから下っており、村を一望のもとに収めることができた。
 駅員の話から鄙びた農村を想像していたわたしの予想は、大きく修正しなければならないようだ。野祭の町はちょっとした盆地に蝟集するように広がり、大きさはともかく建物の込み合い具合は昨晩夜を明かした町にも劣らぬように見えた。
 わたしはバイクを降り、道のわきに道標のように立っていた大きな木によりかかった。
 外れに見える築山はくだんの鉱山によるものだろう。すでに下生えに被われてはいるが、高い鉄塔や幾棟ものスレート葺きの工場が打ち捨てられたように並んでいる。
 よく見ると町中にも工場や高い煙突、精錬にでも用いられたのだろうか、火の見やぐらのような鉄塔などが散見される。もちろん一つとして稼動しているものはない。
 平日の午前中だというのに、町から活気というものはまったく感じられない。通りに人や車の影があまりないこともあろうし(そういえば道中すれ違ったのは、制服の若者たちを乗せたバスが一台だけだった)、何より新しい建物が全然見あたらなかった。
「さて、と」
 ミネラルウォーターのキャップを絞めディパックにほうり込むと、マウンテンバイクを立て起こした。
 まだ町の正体を見定めたというわけじゃない。とりあえず小学校を探してみようと思った。


    五

「あのさ、道を教えてくれる?」
 私がこの町ではじめて出会ったのは、小学校の三四年生くらいだろうか、三人連れの子供たちだった。
 町外れのもう使われていない踏切で、戦争ごっこでもしていたらしい。手にはプラスチックのおもちゃのピストルを持っている。あたりにひろがる背の高いすすき野原には『敵』が潜んでいるらしかった。
 シッ!
 何を入れているのか、緑色のリュックサックを背負った少年が顔をしかめて言った。
「ヒロがほりょになってんだから、みんかんじんはしずかにしてよ!」
 あんまり真剣な物言いに、思わず声に詰まった。こんな子供に民間人呼ばわりされるとは夢にも思わなかったが、子供の頃に夢中になったごっこ遊びの興奮が私にも伝染したようだった。
 斜にかぶっていた化繊の帽子を右手で胸にあて、左手で敬礼の真似事をする。
「隊長殿。小学校へはどちらに向かえばよいのですか」
 腰をかがめてリーダー格らしいはじめの少年に顔を近付けると、小声でささやいた。
 最初キョトンとしていた少年は、すぐに飲み込んだ。帽子をかぶりなおした私に歯をむき出して笑うと、近くの丘のほうを指さした。
 背を伸ばし逆光の中を目を細めて眺めると、山肌の中腹に木々に隠れるようにして瓦葺きの木造建築が小さく見えた。
「あっ、あっち」
 三人の中で一番背の高い少年が不意に声をあげ野原に駆け込んだ。残りも負けじと奇声をあげて唐突に走り去っていく。
 礼を言う暇もなかった。
 三人の姿はすすきの中にかき消すように見えなくなった。わたしはにやにや笑いながら、妙に弾む心地でマウンテンバイクにまたがった。
「さて、先生とかいう人は御在宅かな……」
 すっかり習慣になった一人言をもらしたせつな、
『……どこへいくの』
 ペダルが半回転したところでブレーキがかかった。
 声はびっくりするほど間近で聞こえた。
 儚げな少女の声。その不思議な抑揚は一瞬でわたしを次の行動へと移した。すなわち、ためらうことなく振り向いた。
 ……何も見えない。いや、少なくともとっさに振り返った景色に一瞬前と違ったところはない。
 そろそろ日差しもきつくなる時分である。砂利道に照りつける日差しは熱気という質量を持っているようだ。草いきれと乾いた埃の匂いがわたしをとりまく。
 あまりにも明るく、細部までゆるぎないように見える光景に、少女の声のリアリティはたやすく融け崩れていくように思えた。
 もしここが真夜中の部屋の中ででもあったら、妄想が妄想を呼んであかりでも灯けなければいたたまれない所である。
 しかし気のせい、で片付けるにはあの声の独特のイントネーションには、現実ばなれした現実味とでもいうべきものがあった。
「誰かいる……訳ないよね」
 耳を澄ませても聞こえるのは野原の虫と、遠くの鳥の声ばかりである。
 ふぅっ。
 一息大きく息を吐くと、まとまりかけた何やら怪しげな考えを追い払うように、音がするほど強く手のひらで頭をたたく。
「学校へ行くぞ」
 自分にいいきかせ、わたしはもう一度強くハンドルを握った。


    六

 町中に入る前に左折し、林の中を切り開いたような道をペダルを踏み締めるようにしてのぼってゆく。少年の指した丘は確かにここだった。
 今時珍しいタールを塗った木の電信柱を二十本も数えた頃、古びた石の階段が現れた。
 両脇に一抱えはある石柱が二本立っている。校門のようだ。ほとんど摩耗して判らないが、旧字体で学校と彫り込まれているのが読み取れた。
 石段は思いのほか高く、上をみとおすことはできなかった。自動車用の道が他にあるのではないかとも思ったが、わたしはこの石段を脚で登ることにした。
 念のためマウンテンバイクにチェーンを掛けると、ディパックも下ろしウェストポーチだけの軽装になる。
 石段におおい被さるような背の高い広葉樹のおかげで、八月の日差しは涼やかな木漏れ陽へとかわってくれる。
 ついさっきまでうるさいほどに鳴き交わしていた蝉の声が、ふっと遠くなる。かわりに様々な匂いがあたりを満たしているのを感じる。
 しっとりとした落葉の匂い。
 石畳を緑に染める苔の匂い。
 香ばしい樹液の匂い。
 土の匂い。
 午前中の陽の匂い。川を渡る風の匂い。
 夏の匂い!
 まだまだ!
 世界がこんなにも匂いに溢れていたなんて、初めて知ったような気がした。
 思いきり胸を開いて深呼吸をしてみる。鼻からゆっくりと息を吸い込み、しばらく瞑想して口から静かに吐きだす。閉じたままの目から涙が溢れそうになった。
 ああわたしはこんなにも生きているのだ。
『………………』
 何かの声を聞いた。石段の上だ。
 小学校の子供たちだろうか。
 どういう訳か気が急いた。一段とばしで石段を駆け登る。視界が開けわたしの目に入ったのは……。

 わたしの目に入ったのは、杜だった。
 それが第一印象だった。
 西洋式木造建築とでもいうのだろうか。黒ずんだ木材が使われた三階建ての校舎は、周りを取り囲むように立つ年経た木々とあいまって、一つの巨大な植物のように見えた。
 あたりは奇妙なほど静かだった。
 いや、いままでと同じように虫の声も鳥のさえずりも風の音も、途絶えてはいない。ただおそろしく巨大な校舎からは物音一つしない。
 夏休みなのだから当たり前か。思うがしかし人気のない学校の不気味さは、抑えようもなかった。校舎を一つの生き物のように感じてしまった今ならなおさら。
 古びた校舎は物音を吸い取ってしまっているのだろうか?
 正面に年代物の時計を掲げた玄関がある。そこからV字型に校舎が迫り出し、背後に別棟の校舎の瓦葺きの屋根が覗いている。
 右手には花壇と藤棚が続き、奥には物置のような建物が見える。運動場は左手をまわってゆけば行けそうだった。
 確か野坂先生といったな。
 駅員から名前を聞いた人物は、学校の敷地内に一人住まいをしているときいた。
 あの物置みたいな建物かな。
 ことわりもせず見知らぬ校舎の中に足を踏み入れる気にはなれなかった。この歳になっても、学校というだけで漠然とした忌避感が先にたってしまう。
 ここ数日ろくに雨も降っていないのに、妙にしっとりとした下生えを踏んで校舎に近付く。
 見れば見るほど奇妙な建物だ。ひどく年代物なのに、少しも脆弱そうな造りではない。雰囲気は違うが大きな木造寺院を連想させた。
 かなり無秩序な校舎の配置は、長年の建増しや改築の跡をとどめている。窓硝子越しの校舎の中は薄暗く、あちこちから突き出た煙突に北国生まれのわたしは冬の厳しさを思った。
 そして無骨な煙突からその下の渡り廊下に視線を移したわたしは、白い横顔の浮かぶのを見た。
「えっ……」
 わたしに気づいたのか黒っぽい服を着た小柄な人影は……いやセーラー服姿の少女はついと校舎の中へ歩み去る。
 あの娘は?
 奇妙な連想が脳裏に弾けた。すすきの原の声は彼女だ。
「ちょっと、待って!」
 どきん、と鼓動の早まるのを感じた。思わず脚が前に出ていた。


    七

 渡り廊下は屋根だけの付いている簡素なものだ。野ざらしになっている机を足掛りに、打ちっぱなしのコンクリートにとびのる。
 間、髪を入れず目で少女を追う。左。
「待って。聞きたいことが……」
 聞きたいこと?
 そうだ何故わたしは彼女を追ってるんだろう。
 それでも脚は止まらない。靴裏の厚いゴムが板張りの床にあたって乾いた響きをたてる。
 廊下の幅はそれほどでもないが、天井が高い。採光が十分ではないため、頭上に影がわだかまっている気がする。
 階段だ。今まで他の通路はなかった。無理矢理なほど急な階段を駆け昇る。
「あれっ」
 通路は三つに分かれていた。
 となりの棟に続くらしい上に段差のある廊下と、奇妙な具合に捻れ先を見通すことのできない右側の通路。そしてすぐ後ろのもう一つの昇り階段。
 居た。右側の通路の窓に走り去る白い影。
 あわてて追いかける。静寂の中を自分の靴音ばかりが響く。
 暗い廊下にそこだけ切り取るように八月の陽光が差し込んでいる。見えつ隠れつする人影を追って、しゃにむに現在から取り残されたような校舎を走り抜ける。
 理化室。工作室。資料室。
 大きな額。何かのトロフィー。古ぼけたスピーカー。掃除用具入れ。水飲み場からは忘れられたように水滴がしたたり落ちる。
 ワックスとアンモニア臭と下駄箱と更衣室の匂いと、それと確かにひとの気配が感じられる。
 さらに階段を昇り、降り、廊下を右に折れ、直進し、破れかけたポスターを横目に次は……行き止まりだった。
「……?」
 見失った。そして。
「会いたかった」
 幽霊でもいるのかと初めは思った。背後に明治時代の写真から抜け出でもしたかのような、制服姿の少女が立っていた。
 艶のある長い髪は肩のあたりで束ねられ、シンプルなセーラーの冬服は小柄な体格にあつらえられている。絹のリボンから足元の革靴まで、黒づくめの姿はかえって肌の白さを強調しているようだった。
「どこから。あなたは……」
 声にならない。こんな綺麗な娘は初めて見た、と思った。
「会いたかった。永いこと、私を見つけてくれたのは……」
 語りかけ少女は近付いてくる。夜の闇を宿したような黒目がちの瞳は確かにわたしを見つめている。生活臭のない不思議なイントネーションには聴き覚えがあった。
「ええっと。そ、そう野坂先生を探してるんだけど、知らない?」
 彼女はわたしの言葉を聞いてはいたが、質問には応えず問いかけるような視線を返しただけだった。
「あの、ここって小学校だよね。夏休み中だから誰も居ないけど、わたしはただとおりかかっただけで。あんたを見かけて、何だか気になって追いかけちゃって。……名前、なんていうの?」
 沈黙に耐えられず、喋らずにはいられなかった。
「まゆ、よ。繭。蚕の繭。……さあ来て、こっち」
 繭は細い手でわたしの手首をつかむと通路の奥へひっぱった。繭のすべすべとした手からはちゃんと人の温もりが感じられた。
「奥ってそっちは行き止まりじゃ……」
 ではなかった。ありえない角度でその奥に通路が口をあけていた。
 「まさか……」
 自分で歩いていった記憶はない。微速度撮影のフィルムのように周りの風景が流れ去っていった。


    八

「ここは……」
 繭と名乗った少女はわたしの手をつかんだまま歩いてゆく。
 見ためは、今ではもう見慣れた木造校舎の廊下である。
 薄暗くてどこか黴くさく、ひんやりと黒ずんだ木の心地は不思議と懐かしい感じがする。
 決定的に違うのは、その構造が刻々と形を変えていくことだ。
 床板が、窓枠が、梁が、桟が、ドアが、ところかまわず融合し隣接し渾然一体となった空間を作りだす。前衛作家の空間芸術か、さもなきゃプリズムの光景だった。
 わたしと繭はこの奇妙な空間を歩いていた。上下の感覚すら覚束ない。今自分の足が踏んでいるところが下なのだと思うしかない。
 繭は慣れたもので、床から突き出た電球や水道の蛇口やなんかを身軽に避けてゆく。
「ここは夢の中よ」
 一人言でもいう調子で繭がつぶやく。
「夢? 誰の?」
「今はあなたの夢でもあるわ。ここはこの地の見る夢。この建物を通り過ぎていった人たちの夢……」
 少女自身夢見るような口調で言う内容はよくわからない。あてずっぽうで聞いてみる。
「じゃ、あなたの夢は?」
 繭は質問には答えず、不意につないでいた手を離した。
「ついてきて。見せたいものがあるの」
 ごく自然な様子で、繭は手近の戸を引き開けた。
 戸の後ろには、何もなかった。ただまばゆい光のほかには。あらがう間もなく、わたしは光の中に落ちていった。

 ………閉じたまぶたの上に何かが舞い落ちる。清冽な早春の空気が頬を撫でる。
 おずおずと目を開く。まず目に入るのは山桜の新鮮な白。濡れた地面の感触に、萌え出たばかりの芝の上に上半身を起こす。
 嬉しそうにさざめきあいながら歩いて行く女子学生たち。卒業式の光景。むこうではクラス毎に写真を撮り。体育館からは生徒たちの歌声が。
「これは……」
 視界が揺らめく。
 光景が切り替わった。
 かすかに聞こえるのは、お囃子の音。いつにない熱気が町を満たし。子供たちのはしゃぐ声が。精いっぱいの粋な装いをした貧しそうだけれど幸せそうな人々の姿は……お祭り?
「よく見て、覚えていて。過ぎていった夢を……」
 繭の声が耳許でささやく。
 暗転。
 地の底から響くようなくぐもった音が尾てい骨に響く。
 鉱山下の工場が……。防空壕へ……。もう一週間も……。切れ切れの悲痛な声。空が赤い。あれは炎か、それとも。煤けたような町に人々の声は暗く。ここはまだ食べ物が……。街はもう焼野……。かわいそうにこんな御時世……。細い腕で運動場を掘り返している子供たち。いや、耕しているのか。そうだ学童疎開というのが……。
 今日も空は煤煙で曇り。駅では男たちを送る人々の万歳の声が。……いつまでこんな…。
「これは……夢か。それなら早く……」

 雪が降る。この地方特有の湿った牡丹雪が、わたしの髪にあたっては砕ける。
 この腕の温もりは、わたしの胸に顔をうずめている細い肩は。少女……いや繭だ。
 わたしはやはりこの少女を知らない。ではこの懐かしい気持ちはなんだ。
「……あいたかった」
「どうして。わたしじゃないよ」
「すがたやかたちがかわっても、あなたは……」
「……さっきの光景は?」
「この土地の記憶、よ。ほんのすこししか感じられなかったけど、心の奥ではもっと」
「………………」
 するりと繭はわたしからからだをはなすと背を向ける。
「私はもうながくないの」
「……?」
「ここは特別な場所なの。ながいこと人々の想いがふりつもって、できた時の裂け目。でもみんながここのことを忘れてしまったら……もう誰もわたしを見つけられない」
 雪は相変わらずふりつもっている。痛々しいほどに小さい背中は、たとえようもなく儚げに見えた。
「あの、わたしでよければ……わたしは繭のことを忘れないよ。この土地の歴史も、いろんな人達のことも。だから……」
 だから、あなたもわたしを。
「……ありがとう」
 繭は、振り向いた。瞳にいっぱいに涙をためて。
 いつか。いつかもこんなことがあった。それはわたしの、十九年間の記憶だったろうか。繭のそんな泣き笑いの顔は、わたしの心のどこか隠された弦を弾いた。
 われしらず言葉が紡がれる。
「わたしはおまえを忘れない。おまえの愛した全てのものを」
 わたしはしっかりと繭を抱きしめた。そして……。


    九

 気がつくとわたしは初めて繭を見つけた場所にいた。
 一瞬おいて蝉の大合唱がスコールのように襲いかかる。
 夢だったのか。まさか! 唇にはまだ繭の柔らかな感触が残っている。
 年ふりた校舎はそのままそこにある。しかし繭は。
 校舎へ入って繭を探すことは、できなかった。もし見つからなかったら……。
 のろのろとわたしは歩き出した。

 野坂『先生』の家はすぐに見つかった。これも古びてはいたがせいぜい築三十年といったところだ。
 表札には野坂とだけあり、玄関も縁側も戸が開け放されている。どう言って会えばよいものだろう。
「君が物好きな学生さんかね」
 不意に背後から声がかかる。六十歳は超えているだろう。年のわりに背筋の伸びた老人が、可笑しそうな笑みをたたえて立っていた。
「河本君から電話があってね。そちらにちょっと変わった学生が行くからよろしくとね。はは、こりゃ失礼。こんな町の歴史を知ってどうするんだろうと彼が言っていてね。」
 野坂氏は例の駅員から連絡を受けて、わたしを探していたのだという。闊達な印象を与える彼は、もう十年も前に教師を定年退職し、今は用務員のようなことをやりながら、子供たちの習字の時間を見てやっているという。
 楽隠居をきめこむつもりが、この学校は長年の連れ添いみたいなもんでね、とは彼の弁だ。
 家の中は雑然としていた。というより荷造りしかけた荷物がそのままになっている。
「仕事の途中でちらかっとるが、まあおあがんなさい」
「お引っ越し、ですか?」
 茶の間の卓の上の散らばっていた書類を片付けながら、野坂氏が答える。
「いま茶でもいれるから……ああここらも取り壊しが決まってね」
「取り壊しって、まさか学校のですか!」
 わたしの剣幕に少なからず老人は驚いたようだった。
「……たしかに君はちょっと変わってるかも知れんなあ。そう、一応は重要文化財とかに指定されているから一部は残されるようだが。いまの生徒数じゃ校舎の管理もたいへんでね」
「だからってそんな……」
 言葉が思うようにでてこない。覚えていて、忘れないで。繭の言葉がとめどなく思い出される。
 そういうことか、だからわたしを……。
 黙り込んだわたしを興味深そうに眺め、野坂氏はやさしく笑っていう。
「あんたみたいな若い子にはまだピンとこないかもしれんが、形を失ったからって全てがなくなるわけじゃない。変化がないということは死ぬということと同じだと思わんか。たしかにこの学校にはいろいろな想いが詰まってはいるが、誰かがそれを覚えていればいい。いや、忘れちまったとしても本当は何も変わっちゃいないんだよ」
「でも。忘れられた思い出はいったい誰がうけとめると……」
「……それは人も同じことだよ。人の命はうけつがれ手わたされ、思い出だってそうだ。今度は君みたいな人達が、ここにいろんな想いを刻みつけていく番だ。さあ、そういえば聞きたいことはほかにもあるんじゃないのかね」
 老人の言わんとすることはわかるような気がした。ただ繭のことを考えると。
「いいんです。いや昔の話はもっと聞きたいけど、そうだ片付けの途中でしょ。わたしも手伝います」
 野坂氏は笑って遠慮したが、わたしには身体をうごかしているほうが楽だった。
「話は、仕事をしながらでも聞けるから。おねがいします」
「……じゃあ、今日やろうと思ってたところまで一緒に手伝ってもらおうか。二人がかりなら手間もかからないだろう」
 わたしは老人からいろいろな話を聞いた。その多くはこの学校にまつわるもので。町に活気があった頃のこと。昔は女学校として開設されたこと。戦時中のこと。このあたりに伝わる伝説やいろんな山の精の話も。そして……。
 古い雑誌類を束ねていたとき、本の間から何かがすべりおちた。腰をかがめてその四角い紙片を拾い上げる。
「……!」繭だ!
 古びてセピア色に変色した写真には、まぎれもなく繭の姿がそのままにあった。
 あわてて裏を返す。
 達筆な筆で、『昭和十二年春 真由』とだけあった。
 野坂氏が、くいいるように写真を見つめるわたしを覗き込む。
「まだそんな所に。写真はもう整理したと思っていたが」
 繭の表情は明るく、幸せそうに見えた。
「その人はわたしの姉だった人だよ。もう長いことあってないな」
「いま、どこに」
「その三年後に亡くなったよ。姉のことを覚えている人間ももう私くらいなんだろうねえ」
 何故亡くなったかは聞かないでおいた。この写真の中の繭は、きっとこれからも生きている。

「あの、不躾なお願いですけど。……この写真、私にいただけませんか?」


    Epiloguie

 野坂氏からの年賀状で、学校は正面の校舎と離れのいくつかの建物を除いてあらかた取り壊されたと聞いた。中には資料館のようなところに移築されたものもあったらしい。
 下の町には高速道路が通ることが決まり、ここらもどんどん変わっていきます。来年も是非遊びにいらっしゃい。
 葉書はそう締め括られていた。

 一年の間に、わたしも変わったと思う。
 もうあそこに繭はいないかもしれないが、新しいわたしを見せにもういちどあの地を訪ねてみようか。わたしはそう考えている。

鬼譚

『鬼譚』


 はなやさきたる やすらいばなや


  一

 村の境界の桜の古木に、鬼が出たという噂がたった。
 一本角を生やした異形の巨人を見た、という。
 ちょうど山里にも桜の咲きはじめる頃のことである。
 おおかた夜桜に魅入られて、幻でも見たのだろう。たがいにそう囁きあって、村人はうすらざむい思いを飲みくだした。
 しかし、忌まわしい記憶が悪い流行り病のように呼びおこされた。

 もう十五年も前のことになる。
 この山合いの里に今にも息絶えそうな態でたどり着いた、旅装束の若者があった。
 戦乱の世の動向など、風の噂にしか聞かぬような隠れ里である。旅人というだけで稀なのに、若者の身辺からはまごうことなき血の匂いがした。
 山中の杣人の例にもれず、村人は排他的であった。しかし追われているものをとめ置くことも出来ぬほど窮乏しているわけでもない。
 若者は出自を語ろうとしなかったが、すぐれた猟師の腕前を持っていた。じきに若者は男衆の一人として認められるようになった。
 若者は静葉という名の村長の末娘を娶りひとり娘まで為した。
 村は些細な波乱を無事飲み込み、また平穏な日々を送るかに見えた。

 それを鬼と言ったのは誰だったか。
 狩に出た三人の壮年の男と、五匹の猟犬が首をねじきられて殺された。
 山道に投げ出されていた死体は、人間業とは思えぬ怪力で体を引きちぎられ、戯れに部分を並べられていた。そこに知恵を見てとれるだけ、底無しの悪意を感じさせずにはおかなかった。
 その晩より姿を消したのが朔である。
 夜ごと古木からは鬼の声が響き、よほど豪胆な者でも日が落ちてからは戸を固く閉ざしいろりの火を絶やさぬようにした。
 夫を、息子を、父を、様子の知れない怪異に奪われた人々の悲しみは深かった。とりわけ静葉は気が触れたようになり、ある夜幼い娘を残して一人家を出た。
 翌朝自分のものだけではない血を全身に浴びた静葉が桜の根もとで見つかった。胸に鬼神の面を抱き、仰向けに横たわったその顔は不思議と安らかだった。
 人々の恐れはいやましたが、その晩より奇妙な声は絶えた。
 怪事が起こらぬのを見て村人は静葉を懇ろに葬り、遺品となった鬼神の面を社に奉納した。
 村の内と外をへだてる桜の古木は、以来いっそう華やかに花開くようになった。
 人々は堅く口を閉ざし、恐ろしい記憶は、澱のように日々の暮らしの中に沈みこんでいくかに見えた。


  二

 はしる、走る。
 刺すように冷たい夜気の中を、白い人影が走りぬける。
 年の頃なら十五、六か。束ねた後ろ髪を揺らして、山道を駆け上がるのは白い顔を上気させた少女だ。
 夜半も過ぎて、あたりは旅人もまばらな山中の踏みわけ道である。ひたむきな少女の足どりは勝手知ったる道をゆく確かさを有している。しかし、どんな獣の潜むかも知れない山道に一人で踏み込むなど無謀の極みである。
 道は峠へ向けて上りとなっている。背の高い木々に挟まれるようにところどころ岩肌の露出した悪路が続く。
 急勾配をぬけて少女はようやくその足をゆるめ、荒い息をつく。
『きっと自分は死ぬのだろう』
 少女のほかに辺りに聞くものもいない。自分に言い聞かせるかのように、少女はつぶやいた。
 夜の山道は風がなくともけっして静かになることはない。黒々とした木々は夜気を呼吸してはじめて眠りから覚める。
 まだ春は浅い。
 月夜に羽を打ち鳴らす夜鷹の声もなく、ここまで駆けてきた自分の動悸を何者かに聞かれてしまうのではないかと気がかりになる。
 少女は、胸に両手を押しつけるようにして抱えてきたものを、高い杉のてっぺんから落ちる月光に晒した。
 縦長のとがった顎、ぎょろりと飛び出した瞳、口の端を耳もとまで引き上下二対の牙まではやした恐ろしげな顔。
 まさしく鬼神を象った面である。この十四年、社の最奥から一度も出されることのなかった品だ。
 奇妙なことに、面には両目の覗き穴が穿たれていない。人の顔に着けるための紐穴もない。
 まだ幼さの残る少女がかぶるには、その面は少々大きい。
 首筋にまとわりつくような夜気をおびて、じっとりと湿り気を含んだ鬼神の面は、赤黒い地肌の下に冷たい血液をかよわせているかのようだ。

 空の高みを流される雲が月を隠した。
 あたりがすっと昏くなる気配に、我知らず面に魅入っていた少女はその呪縛から解き放たれた。
 とたんにまわりの木々の奥から、色々なもの達がこちらを窺っているような気配がつのる。
 粗末な着物の懐に、その気味の悪い面を入れしっかりとだき抱えると、少女は再び山道を駆けだした。
 道は村はずれへと続いている。
 鬼の噂がたって以来、誰も村の境界には近づこうとしなかった。
 十四年前に女の血を吸った桜の古木が、華やかに白くけむる姿もそのままにそこにあった。


  三

 少女の名は水菜といった。
 男と静葉がこの世に残した、ただ一人の子である。
 水菜は父も母も知らぬ。
 十四年間、母の家……村の中では本家といえばつうじる家柄であった……に身をよせていた。
 これまで一度として村の一員として扱われたことはない。面とむかってよそものの子だと言われたことも一度や二度ではない。
 身勝手な同情心から、水菜に親切げに接してくれる人もいた。しかし、水菜の感情に乏しい人形のように整った顔を見て、瞳に何かしらおびえの色の走るのを隠せる者はいなかった。
 あるいは水菜の生まれつきの姿に問題があったのか。水菜の肌はとても白い。血の色がすけるほど白く、髪と目は日の光をあびた稲穂のような明るい色だった。父親似だという者もあった。
 色素を欠いた水菜の姿は異常な、そしてどこか超越的な雰囲気を見る人に与えずにはおかない。あまりに美しいものは、ことさらに醜いものと同様、人に名状し難い不安をうえつける。
 村人は口にこそ出さなかったが水菜を話題にするとき、鬼の子よ、呪われた血の子よ、と思わずにはおれない。
 異常な死にかたをした両親の記憶のせいもあろう。できるなら忘れてしまいたい、忌まわしい事柄が少女の姿と奇妙に重ねあわせられていた。

 水菜の立場は、社に祭られている鬼神の面にも似ていた。一方は美しく神秘的で、もう一方は醜く凶々しい。ゆえに人々はそれらを目にふれぬ所に隠そうとした。
 水菜は誰からということもなく、面が母のいまわの際にのこした、いわば形見の品であることを聞いた。面は父がこの村に現れたとき、他所から持ち込んだものであるというのがもっぱらの噂だった。
 確かに面の精緻な造りと、年経た様子のわりに村に伝わる由来のないことからももっともらしい話である。
 いつしか、鬼神の面の安置された社の社殿は、水菜がくつろげる唯一の場所となった。
 社殿といってもそう大きなものではない。本家の裏手の森を、土どめされた階段をのぼると立派な杉林に囲まれるように、こじんまりとした建物が見える。
 ながらく神職のものが居たことはなく、本家の当主が年に幾たびかの祭式を取り仕切ることになっていた。
 神域という意識もあってか祭式のとき以外に村人たちのたちよることもない。水菜が人目を避けるにはこのうえない場所といえた。
 水菜ももう十四歳になる。普通ならばすでに成人として認められ、嫁いでいても不思議のない年だ。村からはずれた位置にある水菜も、いつまでも子供のような身分でいるわけにもいかない。
 縁談の話もないわけではなかった。しかし水菜の保護者である祖父は首をたてにふらなかった。世間体をおもんばかったのかもしれないし、あるいは水菜の中に常人のような結婚とは無縁のものを見いだしたのかもしれなかった。
 水菜自身あえて村にとけ込もうとしないところがあった。自らの異常性を物心ついた頃から刻みつけられたせいもあろう。それより彼女には、人には見えぬものの存在を感じとれるという天性の資質があった。
 水菜の猫科の獣のように金色に輝く瞳は、現実のもう一つの相を映すことができた。じっと耳をすませていれば、葉ずれや風の渡る音、川のせせらぎに意味を見いだすことができる。

 何年か前のことだ。水の中に棲むものたちが、いつになく騒いでいたことがあった。水菜が悪いことが起こると真剣に言っても、家のものさえ取り合ってはくれなかった。
 その晩、川上からわたってきた大雨が洪水を起こした。村の堤がきれ、畑の半分が水に浸り、役畜が被害にあった。
 水菜にとって、この事態は自然のなりゆきにすぎなかったが、村人には水菜が不吉な言葉を吐いたことで、災いが招きよせられたように感じられた。
 それ以来、村人と水菜のあいだの見えないみぞは深まり、水菜も自分からまじわりを持とうとはしなくなった。
 まだ年端もいかぬ少女にとって、人から疎外されて暮らすのはつらい。以来、水菜の明るい色の瞳は、常人には見えぬ世界をさまようことが多くなった。


  四

 林がひらけた。
 峠の頂上である。ここまでが村の領域ということになっている。
 人里にでるには、峠をくだってまだかなりの路程を残した。
 風はない。
 低い下草の生える丘の中央に、全く異なる色彩が屹立する。
 満開の桜である。
「…………!」
 あまりの美しさに水菜は言葉をうしなった。陰鬱たる林に慣れた目に、夜桜の白さはしみるようだ。
 満月の光をあびて、見上げるような古木は自らが燐光を発しているかのように、あたりを白く照らしている。
 やはりここへ来なければならなかったのだ、と水菜は思った。
 鬼の噂がたち、いやおうなく人々の注目をあびたのが水菜である。
 ふたつ親を、鬼に殺された子。
 水菜の特異な風貌を、鬼の呪いだと陰口をいう者もあった。近頃は鬼神の面を祭った社に、しじゅう出入りしているというじゃないか。
 いまさら村人のうわさ話には動じることもなかったが、鬼が再び現れたという事実は水菜の心を奥底からゆさぶり返した。
 恨みの気持ちがないわけではない。父が、母が生きていれば……といくたび思ったことか。
 しかしそれにもまして鬼への興味があった。
 山中の〈精〉や〈妖〉とかいった輩は、水菜には親しいものである。かれらの心は人とはまったく違う。個性はあってもそれは希薄なものだ。
 永の年月をへて、それなりの力を持ってはいるが、山川草木、山と空と海と・・自然の摂理にしたがってただそこに在るのである。
 オニという言葉には、自然の理 とは相いれないような凶々しい響きがある。むしろそれは卑俗な人間の世界に近しいものだ。鬼の正体には、他人の心をのぞき込むように醜悪で蠱惑的な魅力があった。

 夜。
 この数日耳を澄ますと、なきごえが聞こえる。
 もちろん獣ではない。さりとて人間のものとも違う。
 舌をぬかれた喉で、己が怒りをうたいあげるような雄叫びには、聞くものの鳩尾を鷲掴みにするような凄まじさがあった。
 村人は決して口に出さなかったが、この数日の寝苦しい夜は、村の雰囲気をぴりぴりと殺気だったものにしていた。
 水菜は庭にでて、鬼の声にききいった。
 そのあまりの悽愴さにおびえ、山は息をひそめている。鳥や獣はねぐらで息を殺し、木々ですら眠たげな目を閉じおし黙っている。
 飄々と。
 ただ飄々と鬼の声が風をわたってくる。
 聞き惚れるというのとは違う。恐ろしくて身のすくむような声音である。並の神経の持ち主なら、頭から寝具をかぶり聞かぬにこしたことはない。
 身を固くして立ちすくむ水菜は、声の中にやるせない悲しみをきいた。
 人間よりも数段深い我の妄執の中に、己を憎むかなえられぬ望みをきいた。
 われしらず涙がながれ、声のもとに行かねばならぬとの声を胸のうちにきいた。
 十四年前のように。
 十四年前の母のように、鬼神の面をたずさえて水菜は夜道を駆けだしていた。
 とがめるものはない。
 今はそうすることが自然に思われた。


  五

 峠の山頂は開け、小高くなったところに桜が根をおろしている。
 水菜は、夜露をふくんだ下草へと足を踏みいれた。
 目を凝らしてみても、恐れていた鬼の姿は見えない。
 いつのまにか声も止んでいる。
 ただぴんと張りつめた静かな空間は、耳がいたくなるほどの鬼気で満ちていた。
 桜だけが・・あるいは、桜自身が鬼気のでどころなのかもしれないが・・悠然とのばした枝に、今まさに散らんとする花びらをだき抱えている。
 桜は魔性の花よ、とは古人の云うところだが、この夜のこの桜は格別のおもむきがあった。
 水菜もまた桜の美しさの虜になっていた。
 鬼の恐怖は冷水のように心の奥底までしみとおっている。しかし、ほんのしばらくとはいえ、おそれを忘れさせるにはそれは十分の美しさだった。
 さあ……
 さあおいで……
 乱れ咲く白い花をいっぱいにつけ、しだれかかる桜の枝は亡き母の腕のようにみえた。
 夜気を透明にそめあげる桜の甘いかおりは、水菜の心を少しづつ麻痺させていたのかもしれない。
 つと、
 キーン
 鋭い刃鳴りのような音が、胸元の仮面から響いた。
 全身を走る衝撃とともに、水菜は自分のいる場所を知った。
 木まであと十数歩のところまで近づいていた。あしもとには、白い花びらが吹きこぼれたように散っている。
 自分の鼓動が、びっくりするほど大きく聞こえだした。耳の先まで血液が一気にのぼりつめる。
「誰」
 声がかすれた。
 瞳に映ずる情景はかわらない。
 しかし確かに何かが、何者かの大きな力が形をとろうとしている。
 水菜は仮面を両手でかかえなおした。自分以外に頼りになるものはこれしかないと思った。母親の形見である以上に、共に村人から疎んじられたがゆえに生じた奇妙な親近感があった。
 桜のこずえは少女の立つ位置まで届いている。髪にそよぐ風もないのに、舞い散る花びらが頬にふれる。
 ガリ
 どこかで爪のきしむ音が聞こえた。
 同時に低い唸り声が空を震わせる。怨念にみちた呪詛の声。
 風がゆらいだ。
 桜の花びらが、一点に吸い込まれるように舞いはじめる。
 オオオオオオオ……ン
 慄然たる鬼気をともない、ふしくれだった古木の幹に闇が凝縮した。
 其は意思ある瘴気。死への欲望を覆い隠そうともしない、歪んだ精気の煌めき。瞬く間に、いや思いのほか長かったのか、人の顔を思わせる形にそれは拡散し収斂する。
 ねじくれた一本きりの角。あらゆる負の感情をないまぜにした、醜悪な形相。ぽっかりとあいた眼窩には無限の闇がのぞき、青白い憤怒の鬼火がちろちろと燃えている。
 鬼、であった。大の大人でも一抱えではすみそうもない、途方もなく大きな鬼の顔が忽然と空に出現した。
 水菜はその場を動けなかった。
 声すら思うようにならない。
 この威圧感の前には、最前の桜の美しさなどおよそ足元にもおよばなかった。
「さあ、渡せ……」
 われがねのような響きをともない、鬼が人語を話した。
「その、面を、渡すのだ……」
 心臓を締めあげるような圧迫感が少女を襲う。仮面を抱きかかえる両の腕をしっかりと胸に押しつけた。
「……な……ぜよ……」
 やっとのおもいで水菜は声を絞りだした。
 ゆらり、と鬼の表情がうごいたのは、人間のような心があってのことか。巨大な顔面は息の詰まるような瘴気を吹きつけ、人にはありえない牙を覗かせる顎が句を継ぐ。
「……おれはこの十四年というもの、この古木に封じられていた。
 その降魔の面が俺の身を滅し、こんな所に縛りつけやがったのよ」
 鬼は長い舌をたらし、別の生き物のように空にもてあそぶ。ぞろり、と顔を一なめして鬼は続けた。
「たとえ肉の身は亡ぼせても、我が魂を滅すことはできぬ。
 いまのうちにその仮面を打ち壊せば、俺はここから解き放たれるのだ」
 水菜は鬼の言葉を半分も理解できぬ。というより鬼が何を欲しているか、我が身に及ぶおぞましい望みを感じるだけに受け入れたくはなかった。
「苦しかったぜえ……この十四年はよ。人の精をすするどころか、このいまいましい桜に力を奪われちまう。しかし俺の声を聞いて、結界から仮面を持ち出す奴がおろうとはな……。さあ、面を渡せ」
 鬼の瞳が光をました。瘴気が渦巻き、虚空より荒縄を縒ったように筋肉が隆起する腕が引き抜かれる。
 呪にかかったように、水菜は歩を進める。
 あらがう気持ちがあった。同時に鬼の声に従えと命ずる声もあった。
 千々に乱れた心のまま、足だけが桜のもとへとむかっていた。
 あと十歩……。
 ぎくしゃくと前進しながら、唯一自由となる瞳できっと鬼を見据える。
 その妄執にみちた笑みを視界にいれた瞬間、からだの全細胞が前へ歩を進めることを拒んだ。
「いやぁ……」
 のども裂けよとばかりの悲鳴があがる。
  呪縛のとけた一瞬、力強い声が水菜の心の中に響いた。
……私を信じろ
 それはあまりにも唐突で、しかも身近に感ぜられた。
……ここは私にまかせろ。私を信じて、私にゆだねろ
「あなたは!?」
 おもわず口走りかけ、理解した。
 仮面から声が響いてくるのだ。
「何をしている」
 鬼が異変に気づいた。剛毛に覆われた腕をのばし掴みかかってくる。
「ならばこちらからゆくぞ……」
……早く!
 心を決めた瞬間、水菜の意識は拡散した。かわりに、覇気に満ちた別の人格が内からわく。
 しらず、水菜は仮面を自分の顔にかぶせている。紐もないのに、仮面はしつらえたようにはりついた。
 少女のものとはおもえぬ跳躍力を見せ、後ろへ飛び退いた水菜は悠然とした様子で鬼に対峙する。
「久しぶりだな、鬼よ……。今度は念も残さず消し失せてくれる」
 姿かたちはもとのままである。一瞬にして水菜の声は、その発する雰囲気は冷酷な男のものへと変貌していた。
 鬼の凄みのあるくちもとが奇妙な具合に歪んだ。笑った、のだ。
 鬼にとっても、この人格は旧知のものであるらしかった。明らかに鬼の口調がくだけたものとなる。
「その女の体をつかってまたおれと闘うというのか、氷務火よ……。
 ククク、もったいねえなあ。その女はおれの呼びかけに応えたのよ。
 おれのほうにとりつく権利があるとおもわねえか、父娘二代にわたってなあ!」

 鬼のくりだす突きを、手刀で払いつつ、水菜は・・いや氷務火はつぶやく。
「あさましや……。己が殺戮の欲望のために幾人にとりつき、幾百人殺めれば気が済むというのだ。ゆえあって面に封じられし身とはいえ、鬼を討つことこそ我が使命なれば……」
 氷務火は両手で奇妙な印を組むと、足を大地にしっかりとつけ、なにごとか低く唱えだした。
「させるかあっ」
 北東から腐臭ただよう風がまきおこり、澱んだ空気の中で鬼がさらに実体を成しはじめる。
 できかけの口からなおも不明瞭な音声が発せられた。
「おれはあの男の願いを聞きとどけたまでよ。
 一族のかたきを討ちたいがゆえ、おれを呼び込んだのは、あのサムライだったわ。
 おれをやい邪だの、やい忌まわしいだの云うならば・・人こそ呪われし身ではないか……」
 身の丈十尺はゆうに超えているであろう。
 ゆらり、と鬼が氷務火の前に立つ。赤ん坊と大人ほどに違う体格の差に、勝負は決まったかにおもわれた。
「鬼は隠にして居ぬものなり……」
 ふくれあがる鬼気を前に、微動だにせず氷務火は唱え続ける。
 その巨大さからは信じられぬほどの速さで、鬼は腕をふりおろした。充分に体重ののった一撃が、少女の華奢な身体にくわえられる。
 刹那、
「縛!」
 鋭い気合いが一閃した。
 鬼の鈍く光るかぎ爪が薄皮一枚で氷務火の首すじに接している。
 少女の長い髪が数本はらりと落ちた。
「ぐ……うっ……」
 目に見えぬいましめが鬼の全身を捕らえていた。
 冷たい声音で氷務火が言う。
「さあ、そろそろ逝ってもらうか……。
 お前のような輩がおとなしくしていれば、私もそう姿をあらわさずともすむ……」
 縛されている鬼が、身体をかがめた低い位置から目線だけ上げる。
「な……なあ、もとはと言えば、あんたは俺たちの親のようなものじゃねえか。
 人の輩に鬼道を伝えたのはほかならぬあんたの……」
 電撃が鬼の身体をはしった。青白い燐光が巨体を覆い、オゾンの刺激臭が鼻をつく。
 降魔の面の下の表情は窺いしれぬ。ただ、すっと目が細められる気配があった。
「鬼は気にして帰すべきものなり……」
 面の前で、少女の白く繊細な手が奇妙な形に組み合わされる。
 風がうずをまく。
 月光に照らされていた戦場が唐突に暗闇につつまれた。
 桜の舞い散るなか、氷務火の手印と鬼の目ばかりが燃えるような光を発している。 
「ヒッ……ヒーッヒッヒッ……」
 顔を地に向けて含み笑いをもらした鬼が、氷務火をねめつける。憎しみに燃えたその顔は、見ようによっては限りない歓喜の恍惚に間断無く襲われているかのようにもとれる。
 限りない滅びへの欲望。生きることにしがみつく人間よりも、死を恋焦がれる鬼の妄執はより暗く深いのだろうか。
「おれを滅ぼすか。
 おれが居ぬものとすれば、おぬしもまた無明の闇をさまようものぞ」
 気のふれたような高笑いが、虚空に響く。それは敗者の追い詰められた笑いではない。勝ち誇った嘲りが氷務火に浴びせられる。
 つと仮面が上を向く。
 白い手が静かにふりおろされた。
「………………!」


  六

 桜が散る。

 その上にさらさらと更に白いものがふりつもる。
 灰、である。
 氷務火の発した雷球は、鬼を完膚なきまで燃やし尽くした。

 風が舞った。
 すでにあたりに鬼気はない。なお残雪をのこす峰から吹きおろす冷涼な風だ。
 灰と桜が舞う中、降魔の面を手にした少女が立ちつくす。肩を落とし、うなだれ、微動だにしない。
 あれほど激しい闘いのあとだというのに、身体には傷一つない。
 長い髪が風にゆれる。目は閉ざされたままである。
 面が教えてくれた。
 十四年前のことを、面の歩んできた永の年月のことを。

 鬼のことを想った。
 面の主のことを。
 母を、そして父のことを。
 水菜は泣いた。
 生まれてはじめて声をだして泣いた。
 
 
 村からかがり火の近づくのが見える。
 もう夜明けは近づいていた。

相似形について

『相似形について』


 強制的に外へ意識を向けさせられる。その渦中は気楽だけど心はどんどん空っぽになっていく。
 もとから空っぽの心に気づかないですむなら幸せだけど、ひとの意識に押し潰されて、自分に何も残っていないと気づくととても恐ろしくなる。
ひとの心に自分が居れば、ひとが自分のことを気にかけてくれるのならば、私はきっと生きていける。
 でもそのためには自分の心の中にもべつのひとがすんでいることを認めなければならない。わたしは私である以前に、わたしのような物であれかしという思いの産物にほかならないのだから。
 自我などという幻想を抱えてしまったから、一人一人に個性があるなんて思ってしまったから、わたしたちの孤独は癒せない。
 わたしとあなたはこんなにわかりあえているのに言葉が思いの邪魔をする。天使の会話は言葉を使わない。きっと星も無機物も。


パタ−ンA−1 昭倭七十年 札幌

それは葬送儀礼だった。
妖精と竜の実在する街で。
その世界のわたしの見送った魂は夕日の中に沈みこんでいった。
「あのひと」は仮想の月、リリスを目指していた。
暗い月を生身のまま通るためには一度死を経験しておかなくてはならない。
月の竜アタリアよ竜の道を指し示せ。

 落日を待たずして、目にしみる白さの吹き流しが六旗、石畳のステージの外周に掲げられた。どこへ向かうにしろひとを送り出すときはその風向きが重要となる。物見だかくて気紛れで、そして時に危険な風竜を遠ざける意味もあるが、これはより大きな大気の力への意思表示なのだ。
 列席者は二百人ほど。ほとんどが学部の関係者で占められている。この大通公園で執り行う儀式としては小規模なものだ。ただし帝大の風水寮から博士が八人も参加している。在野のユタや神職も招いてあるからその格式は相当なものだ。
風水師は列席者に唱和を求めた。あなたがたの思いが彼の魂を薄明の子らの誘惑から守護するように。地球の星気光が、アイテールより成る大竜が無事に彼の肉体を彼の地へ送り届けるように……。
 儀式の主導者である風水教授の(正確には助教授だったが)……K、は焦げ茶色のニットのベストの上に黒のコートを羽織っている。胸元には風水師の徴である鏡をぶら下げているが、彫りの深い顔立ちと長身からエクソシストでもやっている方が似合っているともっぱらの噂だった。わたしはこの教授の講義に代返のために一度出たことがあった。板書をあまりしないところと低い落ち着いた声に好い印象をもっていた。
 夕陽は西の山並みへ没しようとしている。風水師たちがが特に今日のこの時間のためにこの場所を選んでいる。もとからレイラインの交わる場所、この北の都の大道の始点である。四十メートル四方の石組みのステージにしか見えないが、入念に調整された力の流れはわたしのような素人にも新鮮な気配として感じられる。
『其の名はザイン、其の名はヴァウ、其の名はヘー、其の名はダレト……』詠唱は続く。
 風水師の施した紋様が私たちの視覚を拡張している。山吹色にたなびく彼方の雲に風竜の細い体が舞うのが見える。隣で声と呼吸をあわせているゼミの助手はすでに皮膚の多くを葉脈と気孔で覆われつつある。今のわたしの目にはそのように見える。木精としての本性を半ばあらわにしているのだ。女性である彼女の姿形と相俟ってギリシア伝説の月桂樹の乙女ダプネを思わせた。わたしたちの身体の間を風が巻き始めた。風は人々の取り囲むステージの中心から吹き付けてくる。そこにはわたしの見慣れた一つの人影があった。距離にしてわずか十メートルほど。しかしいくら目を凝らしても輪郭がはっきりとしない。ひどく遠くに見える姿をわたしは必死に追いかけた。彼はこれから死ににゆくのだ。


パターンB−1 1995年 札幌

料理をする女が居る。
料理は自分の生をごくわかりやすい形で編集してくれる。
その日彼女は素晴らしい夕日を見たのだった。
彼岸の景色を、生まれる前にいつも見ていた懐かしい光景を。

 わたしはとても美しい落日を見たのだった。
 午後の講義が早くに終わって家路に向かう地下鉄を降りたわたしは、少し爪先立ちで二番出口の急な階段を登っていた。南北線北二十四条駅界隈の雑踏がわたしを包み、真新しいアミューズメントビルのCDショップとファーストフードチェーンの……Mと、いつもの癖で目線をあげずに通りすぎた。初冬の早い夕暮れは盛り場のこのあたりでは数十分先取りされるらしく、白い湯気で曇ったラーメン屋の明りはことさら眩しくわたしの目を射た。
 信号が黄から赤へと変わる。気をつけろから危険へ。背の高いビルに切りとられた繁華街の空は、西から東へカーキ色からバイオレットのグラデーションを見せていた。夕暮れ特有の凪いだ大気は、遥か数十キロメートル上空の光の屈曲をほぼ歪めることなくわたしの網膜へ伝えた。通りの店みせは照度を必要以上に上げて誘蛾灯の働きを期待している。ネオンサインや広告塔や街路樹のイルミネーションや、地面が華やかに飾りたてられるほどにわたしを包む闇は濃くなってゆくようだった。ひたひたと黒い何ものかがわたしを取り囲み、速やかに水位を上げてゆく。とぷん、と頭が呑み込まれたが最後、わたしを深海の谷底へ置き去りに見上げる光はか細い一すじの雫になってしまう。
 わたしは東へ、自分の家へ向けていた足を反対方向へと向けた。歩いて二分のところに知合いの居る高層アパートがあった。この辺りはこの街でも有数の学生街だからほかにも思い浮ぶ顔があった。しかし今わたしが必要としていたのは、見知った顔よりも勝手の知った高さだった。すなわち見晴らしの良い展望台を捜していた。先輩の……Kは確か六階に住んでいたはずだ。そして9階の屋上への鍵が開いたままになっていることをわたしは知っていた。今ならまだ間に合うかも知れない。
 わたしはもどかしい思いでエレベーターの上の矢印を押し、錆び付いたスチールの扉を押し開けた。案の定鍵は掛かっていなかった。扉の隙間からもれる空気はそれ自体薔薇色に輝き、わたしのてのひらを染めた。
 料理をこしらえるのもその定型化された行為に先刻の心の動きを封じ込めるためだった。夢のような感動は絶えず手のうちから逃げ出してしまいそうで、しっかりと刻み込んでよく咀嚼しておかないと居ても立ってもいられない。料理は手順の繰返しとして記録されるが、実際は膨大な種類の素材と、方法の選択の結果としてもたらされる。熟練した料理人にとって手順はすでに体に刻み込まれた刺青のようなもので、それがゆえに料理の持つ豊饒なイメージは手順という文節によってそのままの形で記憶される。皮膚に象られた模様はそうそう変化しないかもしれないが、その筋肉のうねりと立居振舞いによって描き出される軌跡はそのたびにあらたなものである。


パターンA−2 昭倭七十年 札幌

 薄暗い学生会館の二階は、喫煙区画から流れてくる紫煙で一層見通しの利かないものとなっているのが常である。薄暗い空間は乳白色のグラデーションで構成され、奇妙なほど安定したその濃淡は小雨模様の空の低い雲を思わせる。たとえいかなる種類のものであれ煙草を吸う者が居なかったとしても、頭上数十センチメートルから高い天井までゆっくりとうねりながら室内の空気と釣り合った粒子は落下することも拡散しきることもない。ある者は二階ロビーに空調設備のないことを問題とし、ある者はこの場所で消費されることの多い煙草の銘柄を原因だと考えている。

 かつて惑星間の物質の希薄さが問題とされた時代があった。光学観測器が発達して、この星の姿は物理的にもあらわになったが、いまだ我々の技術だけでは星ぼしの世界へ肉の身体を移動しえなかった頃の話だ。光とエーテルの区別が付くようになっても、なぜ我々の『技術』が大気圏外では通用しないのか明快に語ることはできなかった。正統の星読みの技術は星のコスモスと人間のコスモスの相関を指し示してはくれたが、大気の、星気光のそとにどんな精霊の力が及んでいるかまでは明らかにしていなかった。
 星のエンス、すなわちエンス・アストラーレが不存在の存在として理論化されたのは今世紀の始めのことだ。物質と隣り合わせに共在する空間の記憶。人間の精神が眠りと死後の期間入っていく領域。光と力場についての正確な観測と、時間、空間、精神への深い数学的思考が一人の天才に受肉して空間形成場の概念が人類へもたらされたのだ。もっとも、エーテルと四大精霊を奉ずる技術者達にとってその意義はほとんど理解されなかった。彼らは紋様で縛り付けた精霊を炉に入れて、数百メートルの戦艦を中に浮かすことも可能にしていたのだから。だがいかにフラギストンを効率よく励起させたところで彼らの創り出したギボリムの巨人は、角砂糖一つ分の空間を解放して得られた光と熱になす術もなく融け崩れた。
 先の大戦終結させたこのトピックは今日の学生達の世界地図に新たな国境線を付け加えたばかりではなく、半世紀後を生きる私たちの意識を決定付ける契機ともなった。すなわち、古典的な象徴と、地表に縛り付けられた世界観に決定づけられていた私たちの『技術』が、自らの意識でその物理法則そのものを変容させることができるものだと理解させたのだ。妖精との契約はその詠唱通りに古の理にもとづいて使役しているだけというわけではない。むしろ人間の意識が彼らのような存在を人の目に見える形で結像させているのだ。
『おそらくこの現象は』、とわたしは木の繊維で編んだキープを掌の中でもてあそびながら視線を空にさまよわせる。わたしの頭上から百センチメートルほど上を常に漂う紫煙は時に意識に反応して具象化しようとすることがある。それは波であり引き合う力でもある。意識は遠くまで見通せるが、あちらこちらに偏在する思考の結節をまとめあげるのは億劫だった。何か思考の依り代となるものが必要だった。こういう時あのひとならどう考えるだろう……。
 黒ずんだ板材で覆われた高い天井は緩やかにその隣り合う角度を変え壁へと変化していく。採光のない頂上部は闇に紛れ、しかし解放感の無い閉じた暗がりはわたしを護ってくれる、洞窟の安心を与えてくれる。煙の原因は微細な粒子の群だ。人の吐き出す呼気で、煙草の先端で熱せられた気流に乗って。かつて植物の遺体であったものは巻き上げられ拡散する。塵芥は我々の視界をその小さな面積で遮るのみではなく、光を乱反射することで自らの存在を主張する。とすれば煙の本体は屈曲され微妙に色付けされた光を孕んだ空間ということになるだろう。たとえ煙の粒子のような無きに等しいものであっても、実体を持つ以上常に同じ状態に在り続けることは不断の助力を必要とする。より加工しやすいのは空間の性質だ。人の感覚が物質をそのまま捉えることよりも、むしろ精神の場を感知するようにつくられている事が、今日の世界をかたち作っている。
 常にたゆたい続ける煙は、我々の心と、この場所の切り取る一千立方メートルほどの空間の特異性と決して無関係ではない。云わば紫煙空間とでも言うべきものの中で我々は自分の視神経を過剰に信用してはならない。
「聞いたか?黒田の話」
「クロダ?ああ降霊科の。いや土占科だったっけ」
「土占いの方だよ。霊媒やってんのは香田だろ。ほら背の低くて前髪揃えてて、こないだの学園祭で『アラン・スミシー』呼び出したの知らない?」
「知らない。誰だそいつ」
「……いいや。でさ黒田の話だった。黒田がこんどの探索計画の遂行者に選ばれたって」
 わたしはキープを手繰る指を止め背後の会話に耳をそばだてていた。
 もうゲヘナの探索計画がおおやけになるのか。教授会で探索行が検討されたのは三十か月も前のことになる。内々で計画にゴーサインがでたのが二月前。危険な計画に志願者の現れたことが直接の原動力となった。そして内密にされていたその志願者から、黒田辰彦から異世界行きを明かされたのは八日前のことだった。


パターンB−2 1995年 札幌

 じゃがいもを茹でる鍋はなるたけ大きい方がいい。底の剥げたホウロウびきの奴はこの家で一番大きな台所道具だ。この鍋は十キログラムの水を十リットルの熱湯に変えることができる。そのまま都市ガスの青白い炎にさらしていれば、その数百倍の拡がりを持った蒸気を生産できるだろう。水がすべて湯気に変わってしまう前に、その熱をこの南米産の野菜に与えてしまわまければならない。
 男爵いもの泥を落として皮ごと鍋に落とし込む。水をひたひたに満たして水から火を加えていく。ついでに人参と殻のままの卵もほおりこんでおくと手間がない。熱を通すことで粗く皮を剥いた人参の糖度が上がり、卵の蛋白質流動性を失う。食材として流通してきたものとはいえ、最前まで生きながらえていた生命をNとCとHとOと幾許かの微量元素に還元してしまうこの行為はモノを食べるという行為の延長形に違いない。玉葱と胡瓜は生きたまま刻む。年の瀬に買い置きをしておいた泥の付いた玉葱を麻袋から取り出して薄皮を剥ぎ縦に包丁を入れる。片方がまな板の上をごろんと転がり、左右のシンメトリを描いたはらわたを見せる。さらに縦に五回切り込みを入れてから、粗く微塵切りにする。これは細かすぎても一片が大きすぎても駄目なのだ。小口切りにした胡瓜と合わせて塩をふって手で混ぜておく。このまましばらく置いておくと塩が細胞の浸透圧を変化させ水分を吐き出させる。鍋が煮立ってきて5分も経つと茹で卵はいい頃合だ。卵だけ引き上げて水を張ったボウルに浸けて熱を取る。じゃがいもが茹で上がるにはもうしばらくかかる。それまで何をしていてもかわまないが、料理のことだけは忘れるべきではない。これまで使った道具を片付けるのも、出来上がったポテトサラダを盛る食器を考えるのも料理の内だ。それとも料理を食べてくれる誰かに電話でもしようか。じゃがいもは熱いうちに皮を剥き、人参は縦四等分にし横に薄くスライスする。大きなボウルをテーブルの上に出し、安定のために硬く絞った布巾を敷く。ここからは力仕事だ。手をもう一度洗って、ボウルに人参を入れじゃがいもをサイコロ大にほぐしながら加える。もちろん指を使う。器具を使った調理よりも手を使ってこしらえるほうが舌に馴染みやすいから。まだ熱いじゃがいもを力をこめて崩していくのは原始的な気もちよさを与えてくれる。わたしはこの段階で料理の大部分を味わっている。炎と指先は咀嚼の前駆機関であると共に味覚の一部でもある。もちろん目も鼻も耳も身体を動かすリズムそのものも。短冊切りにした茹で卵と微塵切りにしたピクルスを加えて黒胡椒をふる。一番最後に玉葱と胡瓜の水を絞って入れる。マヨネーズを半カップボウルにあけて手で混ぜ合わせればボウルの中身は完成する。


パターンA−3 昭倭七十年 札幌

 風水師はゲオマンシーの十六の形象からViaを取りだし我々の頭上の空間をそれと名付けた。ヴィアは路の呼称であり、名付けられざる風にその生まれた場所を指し示す。幾重にも円陣を組んだ人々の中心に黒田はひざまつくような姿勢で瞑目している。その表情は揺らいでいくつもの横顔が重なり合って見える。これから送り出されようとしている彼の魂が巻き戻されているのだ。
 わたしたちの太陽系にはいくつもの仮想惑星がめぐっている。通常の観測手段ではその大まかな位置しか掴むことができないが、星読みの技術の上では非常に重要なものである。われわれも眠りの中では自由に行き来できるとされているし、仮想惑星自体が星たちの夢なのではないかと主張するものもいる。地球において一番身近な仮想惑星はもちろん地球の仮想衛星であるリリトである。アダムの最初の妻の名が付けられたこの星からは、その真の主人、すなわち仮想の地球が見渡せるという。これまでその位置すら掴むことのできなかった仮想地球。その住人たちはリリトの子供たち……リリンと呼ばれ、リリンとは悪魔たちの二つ名であることから仮想地球はゲヘナと呼ばれる。誰も帰ってこない国、時間の連続から外れた地獄。
 それでも行ってみたいのだと黒田は言った。月を見て感じるわけのわからない望郷の念を確かめてみたい。伸ばしっぱなしの前髪は黒田の表情を不明瞭なものにしていたが、ときおり覗かせるその目は健全な意思の力を感じさせた。わたしは自分の編んだキープを押し付けるのがやっとだった。この組み紐はそのパターンによって様々な意味をもたせることができる。わたしはようやく覚えた二重言語を二つの要素に振り分けた。黒田の愛したこの街の空気と一番好んだ酒の香りとに。
 あの人は行ってしまった。
 儀式の終焉は唐突で、これまで中心から吹き付けていた風が一気に逆流すると、黒田の姿はもう消えていた。替わりに塩の柱が夕陽を浴びて茜色に輝いている。風水博士たちが的確な動作で紋様を還元していくのをわたしはただ見ていた。
 わたしはちゃんと黒田を送り出せただろうか。涙を堪えてくしゃくしゃのわたしの顔を、それでも黒田は見届けていってくれただろうか。


パターンB−3 1995年 札幌

 ポテトサラダにいい感じで味が染み透るまであと幾分時間がかかる。わたしはキッチンの20ワットの蛍光灯の斜めに照らす部屋で秒針の休まないことを見張っていた。母と姉の帰りはいつもよりも遅いようだ。勤め人の彼女たちと朝の遅いわたしが顔を合わせるのはいつも夕食時だけだ。リビングの明りが灯いていないのを通りから眺めて訝しがるだろうか。午後七時十二分。電話が鳴るのをコール一つでとる。
「はい、……」
「あ、いたいた、良かった!すぐにこっちに来なくちゃ駄目よ。わたしもびっくりしたんだから」
 同じゼミの環生の声だというのは声を聞く前からわかっていたような気がした。電話は『ちせ』からだった。学校の友人達の溜り場のようになっている喫茶店だ。そういえばこのしばらくわたしの足は遠ざかっていた。興奮気味の声でゼミの先輩が旅行から帰ってきたと告げた。どきりとした。わたしの数刻前に訪れた高層アパートはそのKが住んでいるものだった。Kは荷物を別便で送り、空港から直接『ちせ』に現れたのだという。
 わたしは彼に幾ばくかの餞別と料理を奢るという形で貸しがあった。彼はそのかわりに旅先で見つけた一番の酒を持ってくると言っていた筈だ。六週間前の話だ。とても昔のことのような気がした。
「ねえ電話かわろうか?」からかうような調子で環生がいう。
「いや、いい。すぐに行くから」
 口はコミュニケーションの道具だが何も言葉を発するだけとは限らない。舌にふれる触覚や口腔に拡がる香りや味蕾の感じとる味が心を伝える道具となる事もあるだろう。あるいは唇に触れる体温が。
 わたしはタッパーウェアと何か気の利いた包みがないかと考えていた。
 このポテトサラダをあの人に食べてもらおう。