壬生邸の庭

こちらへ移行とリハビリテーション

学園特急

『学園特急』


  学園祭前夜 PM7:55 暴走電車

『…エ……ンを……………のよ』
「? 雑音が、ひどい! もう一度!]
『エン………………………………!』
 思わず怒鳴りつけた無線機の声はいきなりノイズが増した。槙広一郎はヘッドセットを右耳にあてがったまま、この五分間に何度見たかしれない速度計に目を走らせた。
 時速八0キロ。
 正規の運行速度を遥かに超えて路面電車が疾る。とうに夕闇の支配した初夏の学園都市を、新調したばかりのヘッドライトが切り裂いていく。
 湾岸の校舎の建て込む地帯がこの高台からはよくみわたせた。前夜祭のおこなわれる大講堂では、四日間の夢の幕開けを五千人の学生達がグラスをかかげて待ちかまえているはずだ。
「槙クン、部長は何て?」
 手すりを必死につかみながら水谷水紀が叫ぶ。勝気そうな口調はいつものままだが、いかんせん声が震えている。
 広一郎はことさら残念そうな表情でかぶりをふり、「……まだやり様はあるさ」と付け加えた。無線の雑音はいよいよ耳障りの度を高めている。あるいは異常発熱しているモーターかパンタグラフが原因かもしれない。
 浮き気味の車輪が不吉なきしり声をあげた。骨董品ものの一両編成の車体は、次のレールの接合点でバラバラになっても不思議ではない。
 実際、路面電車はよく保っている。この十日間の鉄道部員たちの不眠不休の努力は決して無駄ではなかったということだ。六十年前の車両は電装系をほとんど換装し、ボディーを塗り替え、あまつさえ復旧路線に電源ケーブルをはりめぐらせてつい二時間前にその全作業のほとんどを終えたばかりだ。
 あとは明日の学園祭初日。この学園電鉄を三0年ぶりの眠りから覚ますのを待つのみだったのだ。……五分前までは。
 いまや懐古趣味の丸みをおびた路面電車は一個の優美な砲弾と化していた。貪欲にスピードを求めるこの化け物は、自分が身をまかせているレールの先をしらない。……だいたい試運転もまだなのだ!
 そして到着地を一番よくしっているのが電車の中の二人だという事実は、彼らにとってはもちろん、少なくとも学園の過半数の人間にとって、不幸なことだったのだ。


  学園祭三週間前 PM4:19 鉄道部会議室

 中央待合室のホールには、瀟洒な縁飾りの窓のある高い天井いっぱいに倦怠感と溜息と欠伸が満ちていた。
 昭和初期に建てられたこの「旧」学園中央駅で巨大な会議卓を囲んでいるのは四十人を超す男女である。おおむね紺色のブレザーに身を包んだ若者達であり、このなかに現在進んでいる議事に集中している者が片手の指の数ほどもあれば、彼らの忍耐力は少なからず賞賛されるべきである。
 壇上でぶ厚い書類を読み上げていた女子学生が言葉を切った。「ここまで質問のある者は?」
 いらえの無いのを確認し、彼女はまた無味乾燥な過去の記録を再生しはじめる。
 会議は既に二時間を超えてなお終わる気配を見せていない。
 ……鉄道研なんかに入らなければよかったかな。
 広一郎は数時間前からもう何度心の中で繰り返したかわからないフレーズを溜息とともに吐いた。
 この星海高校に入学して三カ月。
 鉄道部に入部したのと同じだけの時間が経っていた。
 疾風怒涛のような新人勧誘のひと月が過ぎ、全校生徒が五千人というこのふざけた学園の生活にも慣れ始め、あまり深く考えないで入った鉄道部でやっていることといえば、いつ果てるともない会議だった。
 いわく。
『どんなにつまらない意見でも耳を傾けるべきである。少なくともファイルの厚みは増すだろう』
『議事中はは自由な発言を求める。ただしすべての発言を記録した後で』
『考えるよりも過去を見よ。そこにない物はこれからもない物である』
『規則一……鉄道部は伝統に重きを置く。 規則二……前例のない場合は規則一を参照せよ』
 等々。
 広一郎はこうした標語とも呪詛の言葉ともつかぬ先人の作品につけ加える文句を考えていた。
『全てについて議論しようと思うなら、発言は必要最小限ですむ』
 つまり……仰せのとおり。

 がらんとした空間が広一郎の頭上にひろがっている。昭和初期の洋風建築。アーチ状の石材の柱の間には緑色を帯びたガラスがはまり、半円形に切りとられた気怠い陽光がそこだけ型を取ったみたいに空気中の埃を乱反射させていた。
 廃止されて三十年にはなる学園電鉄のこの建物を鉄道部が使用している経緯には、学園史の裏面に関わる複雑怪奇な策謀がある……と広一郎は聞かされていた。
 総延長十二キロ、七つの停車場を擁した、学園内を縦走するこの路面電車は、いまやその一部を残して古き良き時代の語り草となった。
 そしてその全てを受け継ぎ、何はともあれ権益と施設と物品を守り続けてきたのが鉄道部なのであった。この団体の伝統至上主義的性格の最大の原因はここにあるのは明かである。
「……まず学園執行部より通達されたスケジュールだが……」
 環状に月桂樹をあしらった部章の縫い取りのある緞帳を背に、壇上の人物が続ける。広田由紀江。理数科三年。鉄道部現部長だ。
 ようやく、今日の中心議題、三週間後に迫った学園祭に話題が移ったようだ。それなりに部屋の中に活気がよみがえる。
 昨年は部の所有していた客車を改造して、メインストリートで本格的なレストランをやったらしい。フランス語研究会の協力を得て、かなり本格的なものになったという。一昨年はどんな手段で集めたのかもしれない怪しげな鉄道物品の大オークション。Nゲージで学園祭期間中に北海道の鉄道運行状況リアルタイムで再現したという年もある。淡々とした調子で部長が続ける。
 偶然室蘭でおきた鉄道事故までを再現したこの催しは、学内でもすでに伝説として数え上げられていた。出所の定かでないゴシップをあなたも知ってるかもしれない。実際の事故がおこったのは鉄道模型が脱線した後だった、と真顔で、あるいは冗談半分に語る者もある。
 ……退屈な会議ね!
 不意に耳元でささやかれた小声に、広一郎は自分の世界から引き戻された。隣の座席に音もさせず滑り込んだのは水谷水紀だ。普段はよく喋るにぎやかな性格だが、ときおり見せるこうした予期せぬ振舞いに広一郎はいつまでも慣れることができない。
 水紀に言わせると、『広一郎がぼおっとしてるのよ』ということになる。親同志が知り合いという長いつき合いのわりに、とりたてて反論しようとしない広一郎の性格にも確かに問題はあるかもしれないが。
 ……今までどうしてたの?
 つられて広一郎も声をひそめる。
 ……本題に入るのはいつもこのくらいの時間でしょ
 ……でも部則にちゃんと、
 ……あら、広一郎もここの体制派になっちゃったの?
 ……そういうわけじゃないけど……
 ……ならいいじゃない
 ……いや、僕の言いたいのはそんなことじゃなくて……
 ……広ちゃん、これからお祭りの出し物を決めるみたいよ
 ……前から言おうと思ってたんだけど……
 ……ほら、みんなの意見を聞いてくれるって
 ……ぼくの話聞いてる?!
「……それでは、この書類の三役案以外にも今年度の企画についてアイディアを出してもらいたいのだが……」書類から自分を取り囲むように座る部員へ顔を向け、広田部長は言った。
 ……だから、前から思ってたんだけど君の態度がね、
水紀は視線を壇上の部長に向けたまましゃべっている。
 ……ねえ、広ちゃん、この間やりたいって言ってたじゃない、なんだっけ資料館の何だかいう……
 ……ちょっと、たのむからさ
 ……そうそう、年代物の路面電車がどうしたとか……
 ……だ・か・ら、ぼくの言いたいのはそんなことじゃなくてね!
「ええっと、そこ」
 広一郎は虚を突かれた。
「そう、そこのきみ。槙君といったか。君の言いたいのはそんなことじゃなく、何だね」
 広田部長が整った眉をぴくりともさせないで、広一郎を指名した。
「ええっと……」
 仕方なく、会議卓に右手をついて起立する。水紀をにらみつけると、うつむいて肩をひくつかせている。口の端が笑いをこらえていた。
 意外な成り行きに、議場の視線が広一郎に集まる。広一郎の心境は、冤罪で絞首台の階段を登る囚人もかくやであった。
「だから、ぼくの言いたい、のは……」
 言葉が詰まる。昔から人前でしゃべるのは苦手なんだ、何だってこんな目に、いや何か言わないと、水紀の奴勝手なことを……。
 ……デ・ン・シャ、でしょ
 水紀が広一郎にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「そう、路面電車です!」
 思わず反射的にこたえる。
 部長が怪訝な表情で先をうながす。どうとでもなれ、と広一郎は思った。
「廃止されている、学園電鉄を……」
「学園電鉄を?」
 ホールいっぱいに広一郎の声が響いた。
「学園電鉄を復旧させたいとおもいます!」

 現実というのは時としてもっとも思いもしない方向へ転がるものだ。
 驚くべきことに、広一郎の意見は候補の最終票決まで残り、言った本人がもっとも信じられないことだったが、今年度の鉄道部の企画として議決されたのだった。


  学園祭五日前 PM12:25 中央食堂

 星海高校の中心部は、静かな内湾を見下ろすなだらかな丘にちょうどてのひらでも広げたみたいに拡がっている。北海道の日本海側、百五十万都市札幌にほど近く、地形の関係か周辺に比べてその気候は穏やかである。
 学生数五千人はだてではない。大正期に遡るその複雑怪奇な設立過程から、文化財ものの木造校舎から近代的な研究棟まで、雑多な建物が思いのほか濃い緑の中に無秩序に建ち並んでいる。戦時中には、大都市を避けて国の研究機関がこの地にのがれてきたという経緯もある。
 普通科、語学科、理数科、家政科、工業科の五つの専攻科と、研究学園都市に指定されたことで増えはじめた研究施設。札幌と小樽には近年移転した付属小中がある。研究施設の人間や教職員、事務職員、関連機関の人々などを合せるとその人口は一万人をこえる。付近の都市からの交通の便も悪いため、そのほとんどが学園内に居住し、まさに学園が一つの街を形成しているといってもよい。もっとも行政区分としてはあくまでN……市の一区画にすぎないのだが。
 大勢の人間がいるということは、それだけの生活があるということでもある。通称メインストリートと呼ばれる学園を縦走する大路のまさに中心にあるのは、大講義棟でも学園図書舘でも総合体育館でもなく食堂だった。そう、中央学生食堂。
 最大収容人員二千人を誇る巨大カフェテリアの一画、丈夫なだけが取りえのプラスチックトレイに納豆定食をのせてやってきたのは槙広一郎である。
 隅に空いた座席を見つけると広一郎はため息をつきながらパイプ椅子に身をあずけた。心なし顔色も悪いようである。連れの友人もいない。
 ふとテーブルを見ると、多種多様なパンフレット、広告、宣伝ビラに混じって、『学園祭をつぶせ!』と大きく印刷されたアジビラが目にはいる。最近かまびすしい反式典派と呼ばれる連中のものらしい。現執行会に不満を持つ急進分子だというのがもっぱらの論調である。学園祭がお流れになるのなら、加担してもいいなと広一郎はぼんやりと思った。すぐに頭を振って考えを打ち消しはしたが。
 おそろしいことに、学園電鉄の復旧計画は、異様にスムーズにすすんでいた。
 学園当局と学園祭実行委員会、および学園執行部への各種許認可。とりあえずボディだけは保存してあった路面電車のオーバーホール、というより無謀とさえいえる雑多なパーツの組み立て。学園祭パレードとの連係、スポンサー集め、特別試乗券の大規模な販売宣伝、廃止路線への一時的な電力供給の手配、エトセトラエトセトラ……。
 一度決定された事項について、鉄道部員の実行能力は目を見張るものがあった。もっと重要だったのは、目立ちこそしなかったが広田部長の采配である。個性的な部員を適切な位置においてまとめ上げる彼女の技量こそが、馬鹿馬鹿しくも大がかりな計画をおしすすめていた。そして当の発案者、槙広一郎君はというと鉄道部の慣習にしたがって総責任者に祭り上げられていた。
 ぼくは一体何をやってるんだ
 葱と納豆をかき回しながら、広一郎がひとりごちる。
 総責任者は完全に形だけの役職だった。広一郎に与えられた実際の仕事は、路面電車復旧班の実働員というものだ。早い話が今回の主役、昭和初期の浪漫溢れる木造電車を組み上げるために、油まみれ汗みどろになる人足の役回りである。
 モーターの換装、疲労部品の交換、コンプレッサーの調整、窓ガラスの張り替え、電装系に至っては有り合わせの部品で一から作り直しである。やることは数え切れないほどあった。
 いや、与えられた仕事をこなすのはそれほど苦痛ではない。実際、彼の心にわだかまっていたのは名前だけの総責任者という立場だった。思いつきで言ってしまっただけなのだ。確かにアイディアは持っていたが、議場で発言するつもりなどまったくなかった。
 本当のところ、ぼくはこんな事をやりたかったのか? ろくに授業にもでずに上の人のいうままに、一日中ほこりまみれになって働いて……しかも自分が言いだしっぺじゃ文句を言うこともできやしない!
 広一郎にとって、鉄道部はいまや巨大な足かせだった。ため息のみを生みだすものと感じられた。しかもそう考える自分に気がつくたびの自己嫌悪付きである。そんなわけで彼が少しばかりナーバスになっていたのはいたしかたのない状況といえた。
 楽しそうに昼食をとっている一般学生にも、やっかみたい気分だった。薄いお茶を一気に流し込み、おおげさに息を吐いてからトレイを手に立ち上がる。気分はどうあれ食事はきれいにたいらげているようだった。

「槙くん!?」
 最近よく聞く声。誰だっけ?
 長い髪を後ろで結い上げた女生徒だ。そっけない様子で大柄な男に手をふると、きびきびとした足取りで広一郎に近づく。
「あ……部長。珍しいですね」
「なんだか心ここにあらずって感じだったわよ」
「部長まで水紀……水谷さんみたいなこと言うんですね」
 回収口に汚れた食器を返しながら、恨みがましい調子でかえす。湯気に霞む洗い場の奥には、数えきれぬほどのパートの主婦たちやアルバイトの学生が殺気だった表情で水仕事をこなしている。
「どう? 復旧班のほうの調子は」
 広田由紀江は並んで歩きながら聞く。男としては小柄な広一郎よりもわずかに背が高い。こうして普通に部長と会話をするのは初めてかもしれないと広一郎は思った。
「どうって、ごぞんじの通り順調ですよ。もっとも組み上げてからの調整のほうが大変だって聞いてますけど」
「そうね、これからが大変よ」
 広田由紀江はその手腕を認めさせることで鉄道部の部長という地位をつかみとった人物である。バックについている勢力の噂が流れたこともあるが、権力を持つ人物には多かれ少なかれつきまとうものだ。彼女はその臭みを露骨にあらわさないだけでも十分に分別を持っているといえた。
「まさかこんな事になるなんて……」
「えぇ?」
「まさかこんな大事になるなんて思っちゃいなかったんです。こんな事なら、発言なんてしなけりゃよかった!」
 二人しかいないという気やすさが広一朗に大胆な発言をさせた。
 由紀江は何か考えるように目を少し上に向け言葉を選ぶように言った。
「それじゃあ、今君のやっていることは、君自身の意志じゃないのかしら?」
「そうじゃないんです。ただ、重荷なんです。ぼくには部長みたいに何でもこなす能力なんてないし、水紀にはいつもぼうっとしてるって言われるし」
「でも」
 と由紀江が広一郎の言葉をさえぎる。
「でも、今はもう動きだした。どんな形にせよケリは着けなくちゃならない。……そうでしょ」
「……だから悩んでんじゃないですか」
 由紀江は思いのほか明るく笑って言う。
「ははは。そうね。とにかくあと一週間よ大変なのは。大丈夫きっと成功するわ」
 話しながらかなりの距離を歩いていた。六月の陽光に映えて、植込みの新緑が日に日に深みをおびている。二人は中央食堂から、鉄道部室のある山の手の方へ向かっていた。メインストリートはロータリーで大きくふくらみ、中心は噴水もあるちょっとした公園になっている。
「あれ、応援団の連中ですね」
 広場の中心で二十人ほどの学生服の一団が何やら宣伝活動を行なっているらしい。そう大柄ではないが、目つきの鋭そうなのがメガホンを手にアジをぶっている。
「……よって、来たる学園祭は、現執行委のうち上げた大掛かりな事きわまりない目くらましである、と我々は断ずるものである。各専攻の融和と協力などという、奴らの唱える題目など幻想だ。普通科指導主義派の言いなりになっている執行委員会、その下部団体である式典実行委員会のやることが信じられようか。奴らの目的は『指導派』の実権を強化することであり、学園祭というめくらましの影で他専攻への搾取の体制を強めていることは明白である。諸君、目を覚ませ! 学園祭はボイコットするべきである。意志あるものは我々と共に学園祭を粉砕しようではないか!」
 たすきを掛けた無表情な男からアジビラを有無を言わさず押しつけられる。学食にあったのと同じものだ。粗悪な紙に黒ぐろとした文字が躍っている。
「援団って現体制寄りだって聞きましたけどね?」
 意味もなくビラを折り畳みながら広一郎が言う。
「まあ最近じゃ色々あるみたいよ」
 気のなさげな素振りで由紀江は応えたが、仮にも有力な部活の部長なのだ。彼女が何も知らないわけはない。
「でも、いよいよお祭りね」
「なんのことです?」
 由紀江は広一郎に顔を向け、意味ありげな表情を見せた。
「彼らも……反式典派も学園祭あっての存在だってことよ」


  学園祭三日前 PM9:52
    鉄道部山上車庫

「本当にここまで出来るなんてね……」
 水谷水紀は感にたえないような口調でつぶやいた。
 路面電車も後は外装の飾り付けを残すのみ。動力さえ入れば動きだすところまで完成した。
 作業班のメカニックたちは連日連夜の突貫工事から解放され、隣の仮眠室に山と折り重なり睡眠を貪っている。渉外でスポンサーを集めていた水紀は、ボディーに貼り付ける広告の件で遠くこの作業現場までやってきているのだった。誰かここの現場責任者と話を着けなければならないのだが、疲れきって幸せそうに眠り込んでいる男達の姿を見てはかわいそうで叩き起こす気にはなれなかった。いや、汗くさい更衣室のような部屋の中に足を踏み入れることすら出来なかったというのが正解か。
 頼みの綱の広一郎も見あたらないようだった。連日のようにここに詰めていると聞いていたのだが。
「大体こんなものをほったらかしにしておくなんて無用心なのよね」
 誰とはなしに呟き、起きている人は居ないかと水紀は車庫の中に目を転じた。
 煌々と照明の輝くガレージの中、丸みをおびたフォルムの木造電車が奇蹟の様に光を受けていた。天井から車高の倍は高さのあるパンタグラフを突きだし、張り替えられたぴかぴかのガラスは、風をきって走るのを今から待ちかねているようだ。
 樽を横に引き伸ばしたような車体は、正面から見ると人の顔のような愛嬌がある。大きなガラス窓がぱっちりとした目で、丸いヘッドライトが鼻だ。と、その大きな顔から、誰かが顔を覗かせた。
「たいしたものよねぇ、この電車は!」
「広田部長!」
 あきっぱなしになっていた乗降口から顔を出したのは広田由紀江だった。
「全然気がつかなかった。何をしてるんです?」
「貴女と同じよ。電車が気になったの」
 水紀は勢いをつけてタラップを駆け登る。先刻から中に入ってみたくて仕方がなかったのだ。
「うわあ」
 六十年前の車体だと聞いていた。当然内装も入れかえたのだと思っていたのだが、中は古びて黒ずんだ木が、一種独特の風合いを醸し出していた。磨き立てられた金属部分との対比が心地好い。真鍮で縁取られた操縦板が丸みをおびた鈍い光を発している。水紀にはこの電車の機構はよく判らないが、意外にシンプルなのに驚いた。
「貴女の所為で大変な目にあったって、槙くんが言ってたわよ」
「いいんですよ。あいつは少し苦労したほうがいいんです。私が言ってやらなきゃ自分じゃ何もしようとしないんだから」
「いいわね、あなたたちは」
 由紀江が可笑しそうに言い添える。
「?」
「いいのよ、こっちの事」
 後部車両を点検するように歩きだした由紀江と入れ替わりに、水紀はここだけは完全に新品の運転席に腰をおろす。
「それはそうと、部長はいつまでもこんなところに居ていいんですか?」
 由紀江が小振りの時計に目を落とす。十時数分前。
「そうね……そろそろ部室に戻らないと……」
「大変だ!」
 開いたままだった車庫の扉から、二年生の男子部員がかけこんでくる。
「どうした! ここの連中なら仮眠室だ」由紀江が,凛とした声で応える。
「ああ、部長! こんなところに! いや、大変なんです。とにかくニュースを!」

「入るぞ!」
 男臭い仮眠室を躊躇せず開けると由紀江は灯りをつけた。例の二年生部員は足で男どもを蹴り起こしつつ、ラジカセのバンドを学内のミニFM局にあわせる。
『……繰り返します、緊急ニュースを繰り返します。本日午後九時二十分ごろ、学園中央区執行委員会棟内、式典実行委員会室に発煙筒を手にした暴徒が押し入りました。混乱に乗じて黒板にスプレーでメッセージを残したほか、式典委員長ほか二名が軽傷を負った模様です。現在暴徒は逃亡し、知らせを受けた執行委員会は対策会議を開くとともに、関係者のすみやかな自首を求めています! なお各委員会、クラス、部活動、サークルの代表者はただちに執行委員会棟まで出頭してください。こちらはSBC。ただいま緊急ニュースをお送り……いや、失礼。新しい情報が入りました。委員会室に残されたメッセージが公開されました。ええ、読み上げます。我々はこのたびの式典を心待ちにしている者たちである。今日は軽い挨拶といったところだ。前夜祭には比べものにならないほど素敵なプレゼントをお贈りしよう 繰り返します……』


(前編了)



この作品の後編はラフな下書きしか残されていない。以下に掲載する。


  学園祭三日前 PM10:02 引き続き、鉄道部山上車庫

 寝ぼけ眼の男どもは暴徒への怒声と、いつもイマイチ切込みの甘いSBCへの不満と、なぜか快哉を叫ぶ歓声を同時にぶちまけた。部長は滅多に見られない迫力で部員を怒鳴りつけ、なにやら二言三言早口でいい残すとくだんの二年生を連れて足早に立ち去った。

 私こと水谷水紀はガレージの警備要員を残して、興奮した男たちと共に部室まで戻って待機するはめになった。


  学園祭三日前 PM1:15

 物語は少し時をさかのぼり、学園祭三日前の正午過ぎである。

 広一郎は男子寮に着替えを取りに出かけ、その帰り道に応援団の男と密会する由紀江を目撃する。この時点では男の顔は見えない。

 不審に思いはしたが、それ以上追跡することもできず広一郎は山上車庫へと戻る。


  学園祭三日前 PM9:18

 山上車庫での仕事を終えた広一郎は、電話でつかまらない水紀を探して学園の中央部まで降りてきている。

 心当たりを一巡りしても見つからない水紀にいらつきながらもけなげに探し回る広一郎。あきらめて部室へ戻ろうとするところにあやしげな男達を見かける。その中に先の男の姿を発見。今度こそはと思い後を着け、式典実行委テロに巻き込まれる。参考人として執行委員会に取り押さえられる。


  学園祭二日前 PM3:30 第二女子寮215号室

 学園は昨夜の熱気はおさまり、とりあえずは平穏を保っている。執行部は学園祭の断固開催を宣言する。

 広一郎はようやく執行委員会から解放されて部屋に戻っていた水紀を訪ねてくる。電話で呼び出す。
 広一郎の解放の、その裏で立ち回ったのは鉄道部長である。

 広一郎は応援団の男と、部長の関係が気にかかってしようがない。水紀は彼女にはアリバイがあったというが、それでも彼女はなぜテログループと接触を持っていたのかという疑問が残る。部長の秘密を探ろうとする広一郎に水紀も加わることになる。

 直接部長に問いただす手もあるが、偶然姿を見かけた程度の理由で決めつけるわけにもいかないし、当然はぐらかされてしまう。強力な証拠を見つけなくてはならない。


  学園祭二日前 PM11:30 第二女子寮504号室

 広一郎と水紀は由紀江の部屋へ侵入をこころみる。部長は前日から引き続き部室と実行委、執行部の往復で帰ってこない。同室の女子生徒も料理研の仕込みで今日はいないと調べを着ける。鍵は当然掛かっている。寮看の部屋には当然マスターキーがあるが、持ち出すのは至難の業だ。ダクトより侵入することとする。それより問題なのは、男子禁制の夜の女子寮にどうやって侵入するかということである。
 とりあえず水紀の部屋までは外から窓で入ることとする。水紀の手引きで水紀と同室の寮生も抱き込んでの侵入となる。当然噂の立つのを口止めしなくてはならない。頭の痛いところである。
 広一郎については、何だろうと思っていた包みからかつらと女物の衣装を持ちだし、変装しろと迫る。しぶしぶ承知する広一郎。
 部長の部屋のある五階の、水紀の友人の部屋からダクトにもぐり込む。その部屋の鍵は水紀が何だかんだといって借りてある。

 なんとか部長の部屋へ侵入成功。うっとうしいのでセミロングのかつらははずしてしまった。幸か不幸か、いくばくもせずに反式典派の学園祭資料が置かれてあるのを発見する。広一郎はこれで部長の疑惑は固まったと思う。後の問題はこれをどういう形で部長に働きかけるかということである。


  学園祭前日 AM12:15 第二女子寮504号室

 資料の内容は暗号化されているため、一見してわからない。公開野点のお知らせ、茶道部。中を覗いてみると、どうやら学園祭前夜祭に大規模な混乱を引き起こす算段であるらしい。作戦名は「TP(ティー・パーティー)」、作戦部隊は「茶道部」と呼称することと記されている。しかしその実態は応援団であろう事がわかる。

 この資料を持って、部長と直談判するという選択。これが一番だとは思うが、部屋に忍びこんだことがばれてしまうしなあ。実際やっちまってから言うのもなんだが。
 資料を学祭実行委に持っていく選択。部長のことは明かそうかどうしようか。明かせば明白な裏切り行為だし、明かさなければ自分が疑われる。
 応援団に直接やめさせに行く。よそうぜ、正義の味方じゃないんだから。
 でもこのままじゃ学園祭が潰されちまう。ところで俺は何で文化祭についてこんなにムキになってるんだ?


  学園祭前日 AM12:32 第二女子寮

 ここで由紀江と同室の佐東蛍子さんが帰ってくる。女子寮の入口を抜け、スリッパに履きかえ、504号室に近付いてくる……。


  学園祭前日 AM12:35 第二女子寮504号室
 水紀は帰りはそのままドアから出れば、オートロックだし大丈夫という。よし、出ようぜ、とドアを開けると見慣れぬ女子生徒が。あら、由紀江帰ってたの……と向こうは言いかけ顔が引きつる。広一郎は重大な事に気がつく。かつらを忘れていた! とっさにふりむくと水紀がかつらを持ったまま硬直している。
 響きわたる悲鳴。おとこよぉー!! かんだかい悲鳴が響きわたる。

 万事休す。なにせ五階である。これではセーラー服を着た変態だ。広一郎は、興奮した寮生をかきわけ、寮看によって発令された捜査網を逃げなくてはならない。
 広一郎はあまりの絶望感に視界がブラックアウトする感覚を味わいつつも、無我夢中で走り出した。


  学園祭前日 AM9:32 鉄道部部室

 夜明け前に、死ぬ思いで部室までたどり着いた広一郎。半ば死んだも同然の様子でソファに横たわっている。奇抜な服装がさいわいしたのか、広一郎の名前は割れていないようだ(第二女子寮は三年生と二年生の一部が主たる住人である)。
 周りの部員も、まさか昨夜の女子寮痴漢魔が広一郎だとは思いもしない。広一郎もここは下手に逃げ隠れせず、堂々としているのが正解だと考える。しかし昨夜のことを思い出すと考えるだにぐったりとしてくる。不審気に声をかけてくる部員達に、から元気を出して見せる広一郎。

 水紀がやってくる。彼女は周りの騒動に乗じてうまく自分の部屋へ逃げ帰ったのだという。同室の子に他言無用の因果を含めるのに、札幌でのコンサートチケットを奢るはめに。冷たいと文句をつける広一郎に謝りつつも、軽率さをなじる。
 で、どうするの、と広一郎に尋ねる水紀。あの騒ぎの中で部屋から持ち出した資料はぼろぼろになり、表紙と残り数枚になっていた。これでは何の資料だか見当もつかない。。
 振り出しに戻ったわけだ。しかし部長に対する疑惑はいっそう深いものになっている。今日も部長は忙しく飛び回っているらしく、まだ部室には姿を見せていない。それでも誰が何をすればよいのか、しっかりと采配をとっているあたりはさすがというべきだった。

 この暗号化された資料の断片を持って、部長を問い詰めようか。しかしどうやって。
 重要な部分は訳のわからない文字で置き換えられているとはいえ、どうやら資料には前夜祭で起こす騒動の準備について書かれているらしい。具体的な内容は読み出すことができない。それでも、それぞれ何班かに分かれて騒動の引き金を起こす者、騒動に乗じて前夜祭の指導権を握る者、前夜祭が混乱して他の場所が手薄になっている隙に主要な会場の破壊をおこなう者……などが動くと記されている。これじゃ学園祭は目茶苦茶だ。

 悩むうちに強引な先輩によって、広一郎は電線敷設の肉体労働に連れ出されてしまう。資料は水紀があずかる。「私がなんとかするから、広ちゃんは頑張ってね!」


  学園祭前日 AM12:40 下学園通り 喫茶店『3603号室』

 探偵研の友人と彼らの行き着けの喫茶店で会う、水紀。例の資料から暗号化された部分だけを抜きだしその解読ができないか聞いてみるのだ。
 学園祭前日だからというわけだろうか、午前中から喫茶店は結構込み合っていた。
 根室ヒロノブはすでに来ていた。何やら本をよんでいる。どうせまた国際謀略物、それもハードボイルドがかった奴に違いない。と言うより彼を見かける時本を手放している姿を見たことがないような気すら、水紀はする。同じような本ばかりよんでいて、よく読むものがなくならないものだ。

 水紀がメモを差し出すと、意外に手早くヒロノブは暗号を解読してのけた。一文字づつ文字をずらすという、彼に言わせれば古典的な手法である。文字をずらすコードにいろは歌を使っているのがちょっと変わってるけどね。

 ヒロノブに言われたとおりに水紀は文字を入れ換えて読んでみる。『二〇〇〇、テツドウブよりのデンシャ、会場にゲキトツ…………!』


  学園祭前日 PM1:40 旧学園鉄道、第五ジャンクション 

 こうなってはしようがない。水紀は広一郎とおちあい、部長を問い詰めることにする。事と次第によっては、この文書を執行部へ持っていき、介入してもらうことも辞さないつもりである。
 広一郎はまだ路線の最終チェックの最中だったが、後は仲間にまかせて走り出す。もちろんこの時点では迂濶なことは言えないので理由はごまかすが。「何だデートかよ!」「そう(だ)よ!」


  学園祭前日 PM2:10 鉄道部部室

 鉄道部室内は阿鼻叫喚の巷と化している。明日が学園祭初日なのだ、無理もない。

 手近にいた部員から部長の居場所を聞き出す。「さっき山上車庫に行くといってましたあ」


  学園祭前日 PM2:30 鉄道部山上車庫

 二人は一台の自転車に乗って、駆けつける。
 車庫の方は昨日で作業はほとんど終了しているため人気が少ない。暗いガレージには引込線が設けられ、明日のパレードを心待ちにするように路面電車が停車している。路線さえ整備し終われば今すぐにでも走り出せる準備が整っているのだ。パレードは明日の正午、それに先立って今夕試運転がおこなわれる予定であった。まさかその試運転が狙われるなんて……。

 ガレージの二階に設けられた一室が、電車管制室として使用される。もちろんたった一本の列車のために集中管理など必要ないから、電車と各駅間の無線通信で列車は運行する。運行管理の訓練はとうに始められていたし、どこをどうしたのかいくら学内とはいえ、学生が電車を運転する許可を部長は取り付けていた。
 管制室の前に立った二人は、ドアの向こうから低い声の数人の会話を聞く。一つは女性、もう一つは複数の男達だ。
 女性の声はおそらく部長だ。内容は良く聞き取れないが、男達の声は時に嘲りの調子を帯びる。たまらず広一郎は部屋へ駆け込む。「やっやめろ! この……テロリスト!」
 声が震えたのは、まあ仕方がない。中にはこの学園には珍しい学生服の男が四人。応援団だ。
「!」
 由紀江は広一郎を見て意外そうな表情を見せる。
 男達、突然の闖入者に驚くが相手が小柄な男一人と少女だと見てとると余裕を取り戻す。
「そうか、もう我々の正体はお見通しってわけか」少しは頭のきれそうな中肉中背が妙に嬉しそうに言う。
「なに、おたくの部長さんが私らとの約束を破ろうとなさるんでね」
 こんどはやけに色黒の巨漢だ。どうもしゃべり口調が白々しい。できの悪いエキストラだ、広一郎は場違いなことをぼんやり考えていた。
「部長、やっぱり……」
 広一郎の後ろに隠れるようにして水紀がつぶやく。
 由紀江は沈痛な、だが真摯な表情で何も言わない。
「ま、こうなった以上あんたらには少しの間黙っててもらわにゃいかんな……」
 知らぬ間に後ろにも一人男が立ちドアを閉めている。すてばちに広一郎は首謀格の男に殴りかかるが、軽くいなされ二撃目を繰り出すこともできず、のびてしまう。しかもなぐりかたが下手くそだからダメージも大きい。
 朦朧とした意識の中彼はかつがれ、女性達は手早く口を押さえられると、男達に脅されて車庫裏の物置に軟禁される。どのみち叫んでもこのとき車庫には彼らしかいなかったのだが。


  学園祭前日 PM4:10 山上車庫、保管庫

 古びた除雪道具やら掃除道具が雑多に積まれた室内である。放置されてから何年になるのか見当もつかないものもある。車庫自体は今でもほかにも何台か保有する列車の保管庫として、また学園祭以外にこれは定例で年に二回おこなわれる卒業式と修学旅行の特別列車のたびに(在来線から引き込まれるのである!)活用されていたが、ここは使われなくなって久しいようだった。

 ようやく両手を縛られていた紐を切り、さるぐつわも解いた由紀江が水紀を解放し、広一郎を起こして、紐を切りにかかった。その気配で広一郎も意識を取り戻す。
 広一郎がとりあえず大丈夫そうなのを見て安心した水紀、部長に向き直る。
「早速だけど、説明して欲しいわ」
「そう……当然ね、どこから話そうかしら」
 広一郎、取り上げられていなかった例の書類をポケットから出す。
「あなたたちは知っていたのね……」言ってから、何かにひらめいた様子。「ひょっとして昨日の騒ぎはあなたたちが……」
 二人とも図星を指されて何も言えない。いくらこの状況が由紀江のせいだとはいえ、部屋に忍び込んだ負い目は事実。
 しぶしぶ頷く二人に、全てを悟った由紀江は驚きの表情を浮かべ、次いで押さえ切れない笑いに肩を震わせだす。
「……いや、ごめん、ごめんなさい。槙くんの、その、……姿を想像すると、押さえ切れなくて……」
「ぶちょおぉ!!」思わずハモる二人。

 ようやく和やかな空気が戻る。なんにせよ由紀江があの男達と反目していたのは事実なのだ。由紀江はかいつまんで話しだす。
 最前の一幕は、由紀江にしてみれば最後の演技。あとは由紀江自身が試運転に乗り込み、暴走を食い止める手筈になっていた。この計画は広一郎の手にした資料のとおり、反式典派を名乗る連中が指揮していた。そのバックには現在の体制に不満を持ち、権力を欲している者の存在があること(具体的な名前はとうとう口に出なかったが)。今回の学園祭をぶち壊せば、当然現体制に対する風当たりは強くなるだろうということ。応援団はむしろその思想的な背景を巧みに利用された部分が強いこと。もちろん買収された団員もいるだろうが、自分がこの資料を手に入れたのは、個人的な縁故の信用できる筋のものであること。
「それじゃあ、なぜ奴らの陰謀がはっきりした時点で事を公にしなかったんですか!」広一郎は思わず声を荒げる。
 由紀江はじっと二人を見つめ、一言一言静かに、だが力強く言った。
「私は学園祭を……いいえ、路面電車を走らせるという計画をどうしても成功させたかったからよ」
「事を公にすれば確かにテロは未然に防げるかも知れないけれど、……私たちの電車は一切差し止められるわ。電車を暴走させられる危険がある以上、前夜祭のテロを防げたところで実行委がその後の電車の運行も認めるとは考えられない」二人の反応を確かめるように一度言葉を切ると、由紀江はあらためて話しだした。
「それにもしも反式典派に電車を使うことをあきらめさせたところで、かれらは他の方法を取るだけのこと。実際にアクションを起こすまでは誰も反式典派に手を出すことができない……現在の校則はそうなってるのよ。私の採るべき道は一つしかなかった。彼らに協力するふりを装って、反式典派も、そしてあなたたち鉄道部員のみんなも欺き通すこと」
「……それでも失敗するかも知れないじゃない。電車が人で一杯の大講堂に激突したら……!」水紀がたまりかねたように叫ぶ。
「そんな事はさせないわ、……その時は…………」
「その時は自分一人で責任を取るなんておっしゃるんじゃないでしょうね」広一郎の静かな口調に、由紀江は伏せていた瞳を上げた。
「もしも講堂で死傷者が出たらどうするんだ。あなた一人の命でだって購えるものか。どうして……どうして一人で背負い込もうなんて莫迦な事を考えたんですか!」広一郎は我ながらここまで激しやすいたちだとは思ってもみなかった。昨日の晩から自分はどうかしている。
「部長、僕のことを一体何だと思っていたんです?」目を見開いて見つめる由紀江に向かって、広一郎はまさに思い通りの笑みを作って見せることができた。「僕は学園祭の企画責任者なんですよ」


  学園祭前日 PM4:40 鉄道部、山上車庫

「そろそろうちの部員の人目もあるはずだし、奴らも見張りを立てているとは思えないけど……」
 案の上、男達の姿は見えなかった。それでも3人はあたりを気にしつつガレージ内に戻る。まだ他の部員には秘密にしておいた方がいい。
 反式典派は試運転のため午後五時四十五分に山上車庫を出る予定の電車を狙う。出発後にブレーキを遠隔爆破、下り坂ゆえに自力では止まれない電車を学園中央駅近くの急カーブで脱輪させる。その目と鼻の先に、大講堂があるというわけだった。大講堂は最近改修が施されたばかりでエントランス部分は天井まで覆うガラス張りになっている。いくら耐震設計の丈夫なものを使っていたとしても、恐ろしいスピードで激突する数十トンの質量に耐えきれるとは思えない。その先は推して知るべし、である。

 試運転の準備のため、すでにガレージの中では十人ほどのメカニック達が忙しそうに立ち働いていた。物陰からその様子を眺め、三人は顔を見合わせる。
 ……とりあえずどう動くか決めましょ
 由紀江が小声で言いかけたとたん、間の抜けた大声が響く。
「あれっ、部長。もう前夜祭の方に行ってるんじゃなかったんですか?」三人は飛び上がるほど驚いたが、大声の主は場違いに現れた三人に戸惑いつつものんびりとしたものである。復旧班の二年生部員だ。
「いっいいえ、やっぱり電車の方が気になったのよ。・・二人もね」部長の目配せに広一郎と水紀はぶんぶんとうなずく。
「で、そうね、そう。じつは会場の人達には黙って出てきちゃったのよ、こんな所にいるのがばれると後でうるさいから、みんなには黙ってて頂戴」
「そういうもんなんですか。それは構いませんけどね。せっかくだから試運転は見てってくださいよ。この車庫にいりゃ会場の奴らにゃわかりゃしませんって」
「もう少ししたら行くわ。くれぐれも下へ私がいるって電話したりしたらだめよ」
 あくまで人のよさそうな男子生徒はそれでも急がしそうに作業に戻った。
 ……部長、どうするつもりだったんですか
 広一郎は小声で由紀江に囁く
 ……もうタイムリミットまで一時間もありませんよ
 ……今から試運転を止めさせても、反式典派に作戦の練り直しの時間を与えるだけよ。じつはもう打ち合わせはできてるのよ
 ……打ち合わせ?
 ……例の情報提供者。彼が式典実行委と組んで捕り物劇を演じてくれるはずよ。もちろん実行委の方には電車転覆の作戦はオフレコでね。ぎりぎりまで奴らの作戦を進めさせて、寸前で電車を停める。時刻通りに事の運ばなかった反式典派が浮足立ったところを未然に抑えるってわけ
 ……そんなにうまくいくかしら
 水紀がもっともな意見を述べる。
 ……いいのよ。鉄道部の路面電車が災厄の引き金にならなければ。
 由紀江の説明が続く。おそらく反式典派はブレーキの電気系統に細工を施しているだろうと思われた。通常このタイプの路面電車は進行方向とは逆にモーターを回す力を加えることで、スピードを落としたり、あるいは後ろ向きに走行させたりする。つまり、走行中にモーターを止めることで後は慣性の力に従って車体は下り坂を突進して行くわけである。
 ……おそらくは操作パネルの下、操作幹とモーターをつなぐ配線を狙ってくる。無線か……ひょっとしたら時限式の火薬かなにかが仕掛けられていると見て間違いないわ。いい、それじゃ分担を決めるわよ


  学園祭前日 PM5:45 路面電車

 ついに電車は動き出した。暮色の濃いなだらかな景色が、徐々に早さを増して流れていく。
 乗客は広一郎と水紀のみ。結局、他の部員には内密のまま行動は移された。由紀江が電車に乗ってもよかったのだが、事後処理のことを考えると彼女には地上にいてもらった方が都合がいいと全員が考えたからだ。
「槙君、水谷君順調ですか。」
 無線のスピーカーから男子部員の声が響く。
「順調です。状況の方は変わりありません……」
 状況というのは三人の間の取り決めだ。爆弾発見で、『状況』好転。通信担当の部員のその後ろでは由紀江が耳をすませている。
 水紀が話している間、広一郎はその下に屈みこんで孤独な格闘を演じていた。操縦まではしなくてもいいとはいえ、揺れる上にまさに稼働している部品が相手である。最低の作業環境といってよかった。さまざまな配線が入り乱れている上、うかつに触ることもできない。下手なことをして爆発でもさせたら水の泡。しかも時間は恐ろしく限られている。
 広一郎の目に、黒いビニールテープが入った。えらく粗雑な巻き方の上に、位置が不自然だ。慎重に解く。
「……あった!」
 思わず声が出る。単四電池に銅線がぐるぐると巻き付けられている。おそらく、これだ。
「『状況』好転! 運行も正常です」
 水紀の声が弾む。
「……そいつはよかった、水谷さん現在の速度は?」
 事情を知らない男子部員は訝しげな口調ながらも、やはり自分達の組み上げた電車が順調に動いているのが嬉しいのだ。軽口がついて出る。
「えっと、スピードは三五……あ六キロになりました。どうぞ」
「この先下り傾斜がきつくなります。ブレーキをかけて速度を調節してください」
 あくまで正常な無線交信を続けるのは反式典派を欺くためだ。この無線は傍受されている恐れがある。彼らが自分達の目論みの不首尾に終わったのを知るのが遅いほど、広一郎達は着実な勝利を得ることができるのだった。
 シュカン!
 突然、爆弾処理用に持ち込んだ古い空きシリンダーの中でくだんの乾電池が破裂した。思ったよりもくぐもった軽い音だった。拍子抜けしたが、これで完全に反式典派を出し抜いたのだ。
「やった……」
 それまでシリンダーの蓋を足で踏みつけていた広一郎は、どっと押し寄せる安堵感に運転席横の座席に倒れこんだ。
 学園中央部まで、まだ距離がある。あとは適当に理由をつけて電車を停めればいい。本当にテロが起こるならなおさらだ。危険な街中まで行って、みすみす大切な電車を傷つけることもない。
「……広ちゃん! 聞いてる!?」
 水紀の切迫した声に広一郎はわれに返った。呆けていたのはほんの数秒のようだ。
「そうだそろそろどこかの引込線に入って車庫に戻った方がいい……」
「違うの! ハンドルが……スピードが落ちないのよ!」
 肩口で切りそろえられた髪を振って水紀がふりむく。広一郎は両肩をぐいと押されたかのような眩暈を感じた。ショックのためか、あるいは……。
「馬鹿な!」干上がったのどで叫ぶと運転席へかけよる。
 ハンドルにいつもの持ちざわりがない。モーターの逆回転方向にいっぱいに切り返しても駆動部に連動する感覚がない。

「ところで……」不意に気がついて広一郎が訪ねる。「部長、さっき応援団の男達と話が違うなんて言ってましたよね?」
「ああ、そのことね。あの人達、私に計画が筒抜けなのも知らないで、始めはお座敷列車にして借り切りたいから畳をひかせてくれ、なんて言ってたのよ」由紀江は、誰に対してか嘲りの入った笑いをこぼした。