壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

月と二人とやさしい嘘

『月と二人とやさしい嘘』


    一

「おまえにピッタリの娘を紹介してやるよ」
 唐突に西野は言った。
 西野はカオルの右腕をつかむと、軽々と引き上げた。
 金曜日の放課後。部室棟へ向かう渡り廊下。暦の上では春とはいえまだリノリウム敷きの床は冷たい。
 不意にあらわれて突拍子も無いことを言い出すこの友人をカオルは嫌いではない。
 いつもつるんでいるわけじゃないのに妙にウマが合う。アプローチは全然別だけど、同じものを見ているという安心感があった。
 西野はカオルよりも目線一つ背が高い。カオルは西野のあごに頭をぶつけそうになりながらも、ふらふらと立ち上がった。
 そのまま結構がっしりとした西野の胸に倒れこみそうになるカオルをかわし、西野はカオルの薄い背中をどん、とどやしつける。
「ほら背筋伸ばせ」
「いいよ、女の子なんて」
 咳き込みながらカオルはこたえる。
「馬鹿野郎、来年はもう受験生だぜ。今のうちに彼女の一つも捕まえておいて、灰色の受験生活を支えあうのがいいんじゃねえか」
「よくわからないよ、その設定。それに……」それに僕は進学するつもりはない、という言葉をカオルは飲み込んだ。
 なんだっけ、そうそう僕は美術系の専門学校に進むつもりでもう準備をはじめているのだ。そういうことになっていた。
「実はこんなものを預かっている」
 西野は制服のブレザーの内ポケットから淡い水色の封筒を取り出した。宛名に『櫻庭カオルさま』とあるのが見えた。
「うらやましい話じゃねえか、想いを寄せてくれる女子がいるなんてよ。なあ、コレここで開けていいか?」
 西野が封筒に貼られた何かのキャラクターのシールを剥がそうとするのを、カオルは慌ててひったくった。
 そのまま仕舞ってしまうのもバツが悪く、興味津々といった顔の西野の目の前でわざとぞんざいに封を切る。

 櫻庭カオルさま お伝えしたいことがあります。本日午後四時校舎裏の一本桜でお待ち申し上げております。  琴子

 なにか眩暈のようなものをカオルは感じた。
「なあ、ウチの学校の裏に一本桜なんて……」と言いかけて、便箋から目をはずすとグランドの向こうにピンクの色彩が見えた。
「おい、なんて書いてあった?」
 便箋をのぞきこもうとする西野を左手でいなし、渡り廊下の窓を開ける。冷たい中に新緑の匂いをはらんだ風が、運動部の掛け声とともに吹きこんできた。
 野球場が三面取れる広いグランドの向こう、まだほとんど緑の無い山並みを背景におぼろに霞む桜色が見えた。
 グランドの端に見えるサッカーゴールより優に百メートルは後ろにあるのに、遠近法に自信が持てなくなるほど立派な枝ぶりの桜だ。
(いくらなんでもこれはベタだよな)
 カオルが独りごち西野に向き直った瞬間、半透明の選択ウィンドウが空中に現れた。
 厚みはほとんど無い。エッジを丸めたブルーのフレームの中に流麗な文字が浮かんでいる。
『一本桜に向かう Y/N』
(まあここは王道ってことで)
 カオルは空中のイエスアイコンに右手の中指でさりげなく触れる。
 このシミュレーションプレーン内でこうしたインターフェースを扱うには、体の特定の部位を用いる必要がある。
 もちろん、今はシミュレーション内のキャラクターに過ぎない西野にはこのインターフェースは見えていない。
 上半身を選択ウィンドウにめり込ませたままフリーズしていた西野が、ウィンドウが決定され消えるのと同時にしゃべりはじめた。
「琴子のヤツお前に目をつけるなんてなかなか変わってるよな。まあ、いまどきケータイも持ち歩かないで、手紙を人づてで渡す時点でヘンなヤツではあるけど……」
「西野、いま何時だろう」
 便箋を適当に折りたたみ胸ポケットに入れる。封筒のほうは丸めてズボンのポケットに突っ込んだ。
「よしよし、やる気になったな」
 西野は陽に焼けた顔をほころばせて腰のキーチェーンにぶら下げていたケータイを見た。「三時……五分ってとこか」
「じゃあ、あと一時間もないのか。あそこの……」目線で窓の外の桜を示す。
「あそこの一本桜で待つってことなんだけど」
「琴子のヤツ、どこまでも古風だな。顔はそう悪くないのにイチイチやることがベタというか。知ってるかあそこの桜は……」
「いや、たぶん知ってる」
 言いかけた西野を制し、カオルは床に置いたままの鞄を拾った。
「もう少し時間もあるし、購買で何か買って食おうぜ。お前が居てくれたほうが心強いし」
「あ、ああ。もちろん見届けてやるよ。それでどーすんだよ琴子のヤツ」
 埃っぽい空気の中西野と肩を並べて歩きながらカオルは購買の惣菜パンが売り切れていないだろうかと考える。それに西野、このシチュエーションは思い出してみたらもう三度目だよ。

 カオルはシミュレーションプレーンへの没入度が下がってきたことを感じていた。おそらく継続プレイ時間が長時間に渡っていることに警告がうながされているのだろう。
 ゲーム内でリアルでの時間感覚はつかみづらい。
(一度メニューを出して状況を確認しておこう)
 カオルは右手の中指でメインメニューを呼び出すジェスチャーを空中に描く。
 メインメニューが呼び出されると、シミュレーションプレーンに身を置きながら没入レベルは限りなくゼロに近づく。
 カオルは本来の自分へ還元されるとともに、世界のリソースが一気に消費され周囲に微細なノイズが立ち込めるのを味わった。揺り椅子で仰向けになりすぎて、慌てて姿勢を正すようなこの感覚は嫌いじゃない。
 中学生の男の子の姿のままで、カオルは眼前に現れたメインメニューを開いた。
 カオル以外の周囲の状況はフリーズし、停止モードであることを示すために彩度が落ちたセピア色の世界となっている。
 西野はこんなゲームの中でも人に安心感を与える口元の笑みを絶やさない。凍りついたままの笑顔でも、それはカオルには安心できるものだった。
(セーブ終了っと。琴子に西野へ逆転告白させるには、あとどこのフラグ立てとけばいいんだっけ……)
 その瞬間このシミュレーションプレーンの外で大量のリソースが消費されるのが感じられた。
 首筋が粟立つような感触。おもわず身震いした。
 ゲームのメニューが強制終了され、緻密に計算されていた周囲の風景はどんどん荒く削られていく。
「西野!」
 カオルが叫ぶと西野の方も本来の意識を取り戻した。固定されていた目に焦点が戻り、いつもの何かを面白がっているような、それでもひどく真面目な口調で言った。
「シェルターの外部センサーからアラートを受け取った。戻るよ、カオル」

    二

 シミュレーションプレーンの強制終了なんて滅多にあるもんじゃない。
 一度大量殺戮ゲームでズルをしようと、ヒットポイントがゼロを割る瞬間にオートセーブしないで終了するよう、手製のプログラムを仕掛けておいたことがある。
 パーティを組んでダンジョンにもぐるタイプのゲームだった。それなのに、あのころはなぜかソロプレイに熱中してた。なぜそんなに一人でなんでもやろうとしてたんだろう。
 ゲームデータはちゃんとその前のセーブポイントで保存されてたけど、生理レベルに近いところまでドラゴンのブレスが感じられて、危なく本当に火傷するところだったっけ……。

「……」
「……カオル、大丈夫?」
 カオルが目を開くと、鼻がぶつかる距離に西野の二重の瞳があった。
 南洋系のはっきりとした顔立ちに健康的な肌色。見慣れた少女の顔に男物のブレザーの制服はいかにも不釣合いだった。
「西野、服」
「えっ! 嘘。なにこれ、また美少女ゲームなんてやってたの?」
 西野は慌てて自身の外装を普段の簡素な白のブラウスに黒いパンツスーツに描き変える。いつも、あまりにも代わり映えがしないので『女教師』とカオルに馬鹿にされている格好だ。
 カオルはベッドに仰向けに寝ていた。視界の隅にシミュレーションプレーンが強制終了した旨のダイアログが点滅してるのを、手で払って消し去る。
 シミュレーションプレーンに入る時は、AI(人工知能)である西野の意識は大きく制限される。後でゲーム中のロールプレイの記録を見て、憮然としていることもある。
 それがおもしろくて、あえてゲームの時と普段のAIの連続性を絶つように設定しているのはカオルのほうだ。こうした権限は現在西野のマスターであるカオルの手にゆだねられている。
 カオルはすでに生理レベルまで意識が戻っていた。
 つまり十四歳の少女の現実の姿だ。シミュレーションプレーンに接続する前の普段着姿。
 最近はシェルターに入る前に着ていた、学校のセーラー服を好んで身に付けていた。
「そんなことより、アラート! レベルスリーよ。シェルターへの電力供給が異常に低下してる」西野が思い出したように叫ぶ。
「どーゆーこと?」
 カオルはベッドに半身を起こし、いつものクセでうなじの脳パルス端子に触れた。意識が目覚めている時は若干感度レベルを下げておかないとフィードバックがキツすぎて気分が悪くなる。
「外のセンサーを全部起こしてみないとわからないけど??発電装置に異常が起こったのかもしれない」
 ちょっと待ってて、と西野は目配せをすると自分の周りにインターフェースとモニターをいくつも展開し、忙しく操作をはじめた。
 モニターに半透明の輝点がいくつも明滅し、流れてゆく。
 AIである西野は本来こうしたインターフェースを使用する必要は無い。自身と直結しているシェルターの機能管理中枢にアクセスすれば良い。
 カオルの脳パルス端子を通じてこうした姿を見せているのも、ひとえにカオルの精神面での破綻を防ぐためだ。より人間らしく。より自然に。
 これはカオルが命じたことでも、あらかじめプログラムされていたことでもない。西野本人が良かれと思って行っていることだ。
 実を言えば西野はカオルより早く生まれたAIだ。
 カオルが物心ついた頃から今の姿のままで家族の一員として生活していた。姉のように、時には実際の母よりも母親らしく。
 生後すぐに脳パルス端子の移植手術を受けたカオルにとって、AIも実在の人間も変わりない存在だった。ただ一つ、当たり判定が発生しない点を除いて。
 リアルの生活で視聴覚や嗅覚を騙して、AIがそこにいるように感じさせることは今の技術ではたやすい。しかし、手触りやぬくもりは難しく、物理的に触れたりつかんでもらう事に至っては不可能だ。
 アンドロイドにAIを組み込めば触れることができるが、皮肉なことに脳パルス端子が見せる全感覚バーチャルリアリティとはその?本物らしさ?には大いに隔たりがあった。
 そんなわけでカオルはシミュレーションプレーンで西野と会うことを好んだ。自分も感覚だけの存在になれば、AIと人間の間に違いは無かった。さっき途中で終わったゲームのように、実際とは異なる存在になりきることも可能だ。
「まずいわね……」
 西野は呟きながらいつの間にか取り出したスツールに腰をかけ思案顔だ。
 西野はいつもなにか心配しているようなところがある。AIというのは全部そんなものかとカオルは思っていたが、西野にいわせればこれは彼女なりの個性というものであるらしい。
「カオル、これを見て」
 西野はバーチャルのモニターではなく、シェルター内の実物のスクリーンにセンサーの映像を投影した。
 音声は無い。煤けた狭いダクトのような光景が映されていた。壁に敷設された配管が破れているのがわかる。
「結論。このシェルターの唯一の動力ケーブルが破損したわ」
「それって直せるんでしょ」
「そうね、外に出られれば」
「じゃあ、わたしが……」
 カオルが言いかけたところを西野がさえぎった。
「カオル、よく聞いて。これは私たちが助かる最後のチャンスかもしれないの」

    三

 気のせいかシェルターの照明が照度を落としたようにカオルは感じた。
 ベッドに腰掛けるカオルの横に西野も腰をおろした。息遣いも、温もりまで感じられるが、この西野は脳パルス端子の見せる虚像である。
 腰をおろした瞬間も、ベッドのスプリングがたわむことはなかった。
 それでも西野が自分を気遣ってくれる気持ちをカオルは感じた。
「まず復習。カオル、ここはどこ?」
「どこって、月面でしょ。コペルニクス植民地」
「そう。月で最大のドーム型都市。そこのVIP用シェルターに私たちはいるわ」
 西野は周囲を見回す素振りをする。
 素っ気無いが二人だけで使うには広すぎる空間。ここだけ見ればスイーツのベッドルームと言っても通るだろう。扉の向こうには、キッチンや驚くべきことにエクササイズルームまで備え付けられていた。
 カオルの父は世界一の規模を誇る宇宙用建機メーカーの部長である。この企業の月面開発プロジェクトにおいては、事実上のトップといって良い立場にあった。
 一人娘のカオルと母は単身赴任の父を訪ねての短期滞在中だった。
 三万人の人口を数える月面最大の都市とはいえ、そのほとんどは月面開発に携わる国家や企業の人間である。夫婦が子を産み、育て家庭をはぐくめるような環境は整っていない。
 父を訪ねてただの民間人が月面までやってこれるという事実ひとつだけでも、カオルの父の持つコネクションと影響力は相当なものであるといえた。
「企業体の宿舎じゃなんだからって、ホテルに追いやられて。結局パパには一度しか会えずにテロが起こっちゃった」
 テロの危険性は盛んに喧伝されていたように思う。カオルは詳しい背景は知らないが、父が忌々しげにテロリストを罵っていたのを目にしたこともある。
 ただ、カオルの父のような立場の人間にとっては、地球にいるよりは月面のほうが安全なのだ。いかに国際テロ組織とはいえ、民間の定期便が運行しているわけでもない月に密かに侵入するのはなかなか難しいことといえた。
 到着して二日目の朝。全てはカオルの睡眠中に起こった。
 カオルの両親は早朝から勤め先の方へ行っていたはずだ。
「櫻庭夫妻は幸い企業体の本部にいたから一番安全。あそこなら単独で地球に戻る設備も持っているし」
「で、わたしはカオルの危機回避プログラムのせいで、寝坊してたまま鎮静剤を打たれてホテルの地下のシェルターに運び込まれたのよね」
「そう。それにここなら私を存続させるのに充分なリソースが単独であったから。カオル、私のようなAIにとって一番怖いのはサイバーテロなのよ」
 まず大規模なネット擾乱が引き起こされたのだという。
 未知の攻撃性ウィルスによる、地球との通信中枢への爆発的なアタック。この時点で西野は地球に置いてあった自分のバックアップとの連続性を失っている。
 ウィルスのアタックだけなら一時的な麻痺は免れなかったものの、ネットは自立回復も可能だった。ここのコロニーのネットの免疫機構はまずどのようなウィルスにも屈しない。人の手を借りずにウィルスすら自らの全体性をに取り込み安定を図る。
 同時に一瞬の隙をついて起こされた発電設備への物理的な攻撃が、この都市を死に追いやった。
「私もこのシェルターのリソースに自分を移してからは外の様子は全くわからないの。でも月面のネットワークが完全に停止しているのは間違いないわね。ウィルスに二次感染しないように独立したメッセンジャーも放ってみたけど、反響すら返ってこなかった」
 この時代、太陽系を結ぶ惑星間ネットワークが完成されつつあった。しかしいくら優秀なインフラが整っていても、電力が通じないことにはただの電話線ほどの役にも立たない。
 ことに地球との幹線を絶たれれば完全に孤立する、月面のような環境においては。
「で、自立した環境維持装置の完備したシェルターにわたしたちは幽閉されてるってことでしょ。みんな無事なのかしら」
「スペースシップは月面のネットワークと切り離しさえすれば、地球と直接線を結んで飛びたてたと思う」
 しかし電力の使えない月面ではコロニー内の生存環境を確保することはできない。このシェルターの数少ない外部センサーも地上は死の世界だということを物語っていた。
「あと、私たちみたいにシェルターに閉じこもっている人はかなりいるでしょうね」
 つとめて西野は明るく言う。
「一体助けはいつになるの? もう一週間でしょ」
 一瞬西野の表情が硬くなる。しかし今しか真実を明かすタイミングは無い。
 触れることのできない手をカオルの手に重ね西野は言った。
「本当は一週間じゃないのよ、カオル。もう半年もこのコロニーの地上には人間の反応がなかったの。私はあなたを眠らせて、欺いてきたのよ」

    四

 カオルには西野の言うことが理解できなかった。
「えーと? でもまだ何回かしか眠ってないし、食事だって。そりゃシミュレーションくらいしかやることないからアンタと遊んでばっかだったけど、あれって生理時間で六時間以上入り込まないようにセットされてるはずよね?」
 シミュレーションプレーンに没入している間、人は時間感覚を一定に保つことができない。
 ほんの数分で数時間におよぶレクチャーを受けることも可能だし、逆に脳の反応を遅延させて一瞬の経験を無限に引き伸ばすこともできなくはない。
 六時間というのは現実世界での生理的欲求を勘案して定められた安全基準である。
 廃人と呼ばれるようなネットジャンキーの中には恒常性維持装置《ホメオスタシス・プール》に浸かって常にネット上で生活しているような者もいる。
「さっき煤けたダクトの映像を見せたわよね。あれは本当。このシェルターに備え付けられた救難信号弾が暴発したの。外部センサーが人間の反応を捉えたら自動的に発射されるようにしてたんだけど……予想以上にシェルターの外は破壊されていたみたい」
「じゃあ、助けが来たってことじゃない! 外に出れば……」
「だから!」
 思いつめたようで西野はカオルの手をとった。
 自分の体が不意に重さを失うのをカオルは感じた。バーチャルな存在のはずの西野に手を引かれてそのまま宙に浮かんでゆく。
「これって……」
「そうよ」
 カオルはおそるおそる周囲に目を向けた。
 部屋の様子はさほど変わりが無い。ただ照明はほとんど落とされていた。
 かわりに先ほどまで腰をかけていたクィーンサイズのベッドが変貌していた。
 大きさはさほど変わりないが、滑らかな金属製のプールに半透明のカプセルのようなものがなかば沈んでいる。プールに満たされた溶液は薄いピンク色で自ら発光しているかのように光を当てられていた。
 そこに浮かび上がる人影は??カオル自身のように見えた。

「いま見てるのが本当のシェルター内部」
 囁くように西野は言う。感情を押し殺しているようにカオルには聞こえた。
「現実だと思っていたシェルター内の光景がシミュレーションプレーンだったの。本当のカオルの肉体は冬眠状態にしてあるわ」
「つまり今のわたしも、さっきのゲームの中のわたしも……」
「そう。どちらもシミュレーションプレーン内の外装だったの」
「どうして、わざわざそんな」
 そんな手の込んだことをしたのかとカオルは思った。
 その気持ちを汲んだように西野が続ける。
「鎮静剤を打ってシェルターに運び込んだところまでは本当。その際の規定の手順としてコールドスリープカプセルが用意されるのよ、月面では」
 その後ネットワークと電力供給の復旧を待ってカオルを起こそうとした。十二時間待っても変化がないことを確認した時点で西野は決断した。
「このシェルターには確かに充分なエネルギー備蓄も設備もあった。でもエネルギー供給が無い状態では、あなた一人を生かすだけでも一か月が限界だったの」
 カオルを冬眠状態にし、エネルギー消費を最低限に抑えた。これならあと五〇年でも持っただろう。でも、と西野は続ける。
「でも、脳だけは起こしておかないといけないの。外惑星への探査船で起きた事例だけど、あまりに長いあいだコールドスリープを続けると生体脳はパルスを喪失する」
「聞いたことあるわ」
 カオルは空中に浮かんで自分の体を見下ろすという経験を受け入れ始めていた。
 それとも心が平静を保っていられるのは、西野の存在をこんなに身近に感じられるからだろうか。西野と結んだ右手をぎゅっと握る。
コールドスリープで夢を見ないでいると、魂が体から離れちゃうって……」

    五

「これで話は全部終わり」
 カオルは西野の顔を見つめた。全てを見透かされるような、いくら嘘を重ねても決して穢れることの無いようなAIの瞳。
「この後の決断はカオル、あなたに任せる。さっきの救難信号弾の暴発でこのシェルター内の残りエネルギーは少なくなってる。でも、このままコールドスリープを続けることもできるわ」
「エネルギーはどのくらい持つの?」
「およそ一年。さっきの外部センサーの反応がこのコロニーの再建に来た人たちなら、早晩外部からの電力供給も復旧するでしょう。これなら一番安全に地球に帰る事ができる。望むならエネルギーが復旧する瞬間まで、体感時間を早送りしてもいい」
「それ以外の選択肢も教えて」
 西野はカオルの手を放し、両手で肩を押さえる。
「いい? 実を言うともう一つの選択肢のほうが、生還する確率は高いと思うの。でも……」
 目で促すと西野はゆっくりと、言葉を区切るように続けた。
「でも、こっちだとカオル、死ぬ時はあなた一人よ」

 カオルはうつむいて自分の?本体?の姿を確認した。
 静止画以外で自分の寝顔を見るのは初めてだ。なんて無防備な、幸せそうな顔。
「もうひとつのやり方ってのはつまり、?わたし?が起きて助けを求めに行くってことね」
 西野は黙ってうなずく。
「西野はどうするの?」
 西野の口元に小さな変化があったような気がした。笑ったのかもしれないとカオルは思った。
「私は??あなたの脱出口を開けて待機モードに入る。幸いエネルギーの続く限り眠っていても私には魂がないからね」
 茶化すように言う西野につられてカオルも少し笑った。
「わかった。シェルターにはわたしでも着られる宇宙服があるのね。それで手動で救難信号を打ち上げればいいの? マニュアルはあるかな」
 勢い込んでしゃべるカオルを、慌てて西野はとどめる。
「よく考えて。一度コールドスリープを解いたら再冬眠に入るだけのエネルギーは残ってないのよ。発電機が直せないようなら、このシェルターは人一人を一日も生かしておくことができない。外に出て、もし助けが来てないことがわかったら、待ってるのは確実に近い死だけ」
「そして、その時は自分を維持するためのリソースもわたしの為に削るつもりね?」
 身をよじるように西野の手をはずし、空中でカオルは距離をとる。
「そんなことはさせない。冬眠したまま知らずに死んじゃうなんてもっと嫌。外に出るわ。そしてでっかいバッテリーを引っ張ってくるから大人しく待ってるのよ!」
 カオルが一気にまくし立てると、呆然としていた西野は不意にうつむいた。
 肩を小刻みに震わせると爆笑した。
「ははっあはははははは、はーっおかしい。わかった、OK。それでいこうカオル」
 たまに見せるちょっと皮肉そうな笑みを口元に浮かべ、西野は右手を差し出した。
 ちょっと馬鹿にされたような気分になったが、カオルも素直に握手に応じる。
 西野がおどけるように言う。
「よし、おまえにピッタリの娘を紹介してやるよ。ちょっと強情で気が利かないけど、勇敢でサイコーの魂をもった女の子だ」