壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

鬼譚

『鬼譚』


 はなやさきたる やすらいばなや


  一

 村の境界の桜の古木に、鬼が出たという噂がたった。
 一本角を生やした異形の巨人を見た、という。
 ちょうど山里にも桜の咲きはじめる頃のことである。
 おおかた夜桜に魅入られて、幻でも見たのだろう。たがいにそう囁きあって、村人はうすらざむい思いを飲みくだした。
 しかし、忌まわしい記憶が悪い流行り病のように呼びおこされた。

 もう十五年も前のことになる。
 この山合いの里に今にも息絶えそうな態でたどり着いた、旅装束の若者があった。
 戦乱の世の動向など、風の噂にしか聞かぬような隠れ里である。旅人というだけで稀なのに、若者の身辺からはまごうことなき血の匂いがした。
 山中の杣人の例にもれず、村人は排他的であった。しかし追われているものをとめ置くことも出来ぬほど窮乏しているわけでもない。
 若者は出自を語ろうとしなかったが、すぐれた猟師の腕前を持っていた。じきに若者は男衆の一人として認められるようになった。
 若者は静葉という名の村長の末娘を娶りひとり娘まで為した。
 村は些細な波乱を無事飲み込み、また平穏な日々を送るかに見えた。

 それを鬼と言ったのは誰だったか。
 狩に出た三人の壮年の男と、五匹の猟犬が首をねじきられて殺された。
 山道に投げ出されていた死体は、人間業とは思えぬ怪力で体を引きちぎられ、戯れに部分を並べられていた。そこに知恵を見てとれるだけ、底無しの悪意を感じさせずにはおかなかった。
 その晩より姿を消したのが朔である。
 夜ごと古木からは鬼の声が響き、よほど豪胆な者でも日が落ちてからは戸を固く閉ざしいろりの火を絶やさぬようにした。
 夫を、息子を、父を、様子の知れない怪異に奪われた人々の悲しみは深かった。とりわけ静葉は気が触れたようになり、ある夜幼い娘を残して一人家を出た。
 翌朝自分のものだけではない血を全身に浴びた静葉が桜の根もとで見つかった。胸に鬼神の面を抱き、仰向けに横たわったその顔は不思議と安らかだった。
 人々の恐れはいやましたが、その晩より奇妙な声は絶えた。
 怪事が起こらぬのを見て村人は静葉を懇ろに葬り、遺品となった鬼神の面を社に奉納した。
 村の内と外をへだてる桜の古木は、以来いっそう華やかに花開くようになった。
 人々は堅く口を閉ざし、恐ろしい記憶は、澱のように日々の暮らしの中に沈みこんでいくかに見えた。


  二

 はしる、走る。
 刺すように冷たい夜気の中を、白い人影が走りぬける。
 年の頃なら十五、六か。束ねた後ろ髪を揺らして、山道を駆け上がるのは白い顔を上気させた少女だ。
 夜半も過ぎて、あたりは旅人もまばらな山中の踏みわけ道である。ひたむきな少女の足どりは勝手知ったる道をゆく確かさを有している。しかし、どんな獣の潜むかも知れない山道に一人で踏み込むなど無謀の極みである。
 道は峠へ向けて上りとなっている。背の高い木々に挟まれるようにところどころ岩肌の露出した悪路が続く。
 急勾配をぬけて少女はようやくその足をゆるめ、荒い息をつく。
『きっと自分は死ぬのだろう』
 少女のほかに辺りに聞くものもいない。自分に言い聞かせるかのように、少女はつぶやいた。
 夜の山道は風がなくともけっして静かになることはない。黒々とした木々は夜気を呼吸してはじめて眠りから覚める。
 まだ春は浅い。
 月夜に羽を打ち鳴らす夜鷹の声もなく、ここまで駆けてきた自分の動悸を何者かに聞かれてしまうのではないかと気がかりになる。
 少女は、胸に両手を押しつけるようにして抱えてきたものを、高い杉のてっぺんから落ちる月光に晒した。
 縦長のとがった顎、ぎょろりと飛び出した瞳、口の端を耳もとまで引き上下二対の牙まではやした恐ろしげな顔。
 まさしく鬼神を象った面である。この十四年、社の最奥から一度も出されることのなかった品だ。
 奇妙なことに、面には両目の覗き穴が穿たれていない。人の顔に着けるための紐穴もない。
 まだ幼さの残る少女がかぶるには、その面は少々大きい。
 首筋にまとわりつくような夜気をおびて、じっとりと湿り気を含んだ鬼神の面は、赤黒い地肌の下に冷たい血液をかよわせているかのようだ。

 空の高みを流される雲が月を隠した。
 あたりがすっと昏くなる気配に、我知らず面に魅入っていた少女はその呪縛から解き放たれた。
 とたんにまわりの木々の奥から、色々なもの達がこちらを窺っているような気配がつのる。
 粗末な着物の懐に、その気味の悪い面を入れしっかりとだき抱えると、少女は再び山道を駆けだした。
 道は村はずれへと続いている。
 鬼の噂がたって以来、誰も村の境界には近づこうとしなかった。
 十四年前に女の血を吸った桜の古木が、華やかに白くけむる姿もそのままにそこにあった。


  三

 少女の名は水菜といった。
 男と静葉がこの世に残した、ただ一人の子である。
 水菜は父も母も知らぬ。
 十四年間、母の家……村の中では本家といえばつうじる家柄であった……に身をよせていた。
 これまで一度として村の一員として扱われたことはない。面とむかってよそものの子だと言われたことも一度や二度ではない。
 身勝手な同情心から、水菜に親切げに接してくれる人もいた。しかし、水菜の感情に乏しい人形のように整った顔を見て、瞳に何かしらおびえの色の走るのを隠せる者はいなかった。
 あるいは水菜の生まれつきの姿に問題があったのか。水菜の肌はとても白い。血の色がすけるほど白く、髪と目は日の光をあびた稲穂のような明るい色だった。父親似だという者もあった。
 色素を欠いた水菜の姿は異常な、そしてどこか超越的な雰囲気を見る人に与えずにはおかない。あまりに美しいものは、ことさらに醜いものと同様、人に名状し難い不安をうえつける。
 村人は口にこそ出さなかったが水菜を話題にするとき、鬼の子よ、呪われた血の子よ、と思わずにはおれない。
 異常な死にかたをした両親の記憶のせいもあろう。できるなら忘れてしまいたい、忌まわしい事柄が少女の姿と奇妙に重ねあわせられていた。

 水菜の立場は、社に祭られている鬼神の面にも似ていた。一方は美しく神秘的で、もう一方は醜く凶々しい。ゆえに人々はそれらを目にふれぬ所に隠そうとした。
 水菜は誰からということもなく、面が母のいまわの際にのこした、いわば形見の品であることを聞いた。面は父がこの村に現れたとき、他所から持ち込んだものであるというのがもっぱらの噂だった。
 確かに面の精緻な造りと、年経た様子のわりに村に伝わる由来のないことからももっともらしい話である。
 いつしか、鬼神の面の安置された社の社殿は、水菜がくつろげる唯一の場所となった。
 社殿といってもそう大きなものではない。本家の裏手の森を、土どめされた階段をのぼると立派な杉林に囲まれるように、こじんまりとした建物が見える。
 ながらく神職のものが居たことはなく、本家の当主が年に幾たびかの祭式を取り仕切ることになっていた。
 神域という意識もあってか祭式のとき以外に村人たちのたちよることもない。水菜が人目を避けるにはこのうえない場所といえた。
 水菜ももう十四歳になる。普通ならばすでに成人として認められ、嫁いでいても不思議のない年だ。村からはずれた位置にある水菜も、いつまでも子供のような身分でいるわけにもいかない。
 縁談の話もないわけではなかった。しかし水菜の保護者である祖父は首をたてにふらなかった。世間体をおもんばかったのかもしれないし、あるいは水菜の中に常人のような結婚とは無縁のものを見いだしたのかもしれなかった。
 水菜自身あえて村にとけ込もうとしないところがあった。自らの異常性を物心ついた頃から刻みつけられたせいもあろう。それより彼女には、人には見えぬものの存在を感じとれるという天性の資質があった。
 水菜の猫科の獣のように金色に輝く瞳は、現実のもう一つの相を映すことができた。じっと耳をすませていれば、葉ずれや風の渡る音、川のせせらぎに意味を見いだすことができる。

 何年か前のことだ。水の中に棲むものたちが、いつになく騒いでいたことがあった。水菜が悪いことが起こると真剣に言っても、家のものさえ取り合ってはくれなかった。
 その晩、川上からわたってきた大雨が洪水を起こした。村の堤がきれ、畑の半分が水に浸り、役畜が被害にあった。
 水菜にとって、この事態は自然のなりゆきにすぎなかったが、村人には水菜が不吉な言葉を吐いたことで、災いが招きよせられたように感じられた。
 それ以来、村人と水菜のあいだの見えないみぞは深まり、水菜も自分からまじわりを持とうとはしなくなった。
 まだ年端もいかぬ少女にとって、人から疎外されて暮らすのはつらい。以来、水菜の明るい色の瞳は、常人には見えぬ世界をさまようことが多くなった。


  四

 林がひらけた。
 峠の頂上である。ここまでが村の領域ということになっている。
 人里にでるには、峠をくだってまだかなりの路程を残した。
 風はない。
 低い下草の生える丘の中央に、全く異なる色彩が屹立する。
 満開の桜である。
「…………!」
 あまりの美しさに水菜は言葉をうしなった。陰鬱たる林に慣れた目に、夜桜の白さはしみるようだ。
 満月の光をあびて、見上げるような古木は自らが燐光を発しているかのように、あたりを白く照らしている。
 やはりここへ来なければならなかったのだ、と水菜は思った。
 鬼の噂がたち、いやおうなく人々の注目をあびたのが水菜である。
 ふたつ親を、鬼に殺された子。
 水菜の特異な風貌を、鬼の呪いだと陰口をいう者もあった。近頃は鬼神の面を祭った社に、しじゅう出入りしているというじゃないか。
 いまさら村人のうわさ話には動じることもなかったが、鬼が再び現れたという事実は水菜の心を奥底からゆさぶり返した。
 恨みの気持ちがないわけではない。父が、母が生きていれば……といくたび思ったことか。
 しかしそれにもまして鬼への興味があった。
 山中の〈精〉や〈妖〉とかいった輩は、水菜には親しいものである。かれらの心は人とはまったく違う。個性はあってもそれは希薄なものだ。
 永の年月をへて、それなりの力を持ってはいるが、山川草木、山と空と海と・・自然の摂理にしたがってただそこに在るのである。
 オニという言葉には、自然の理 とは相いれないような凶々しい響きがある。むしろそれは卑俗な人間の世界に近しいものだ。鬼の正体には、他人の心をのぞき込むように醜悪で蠱惑的な魅力があった。

 夜。
 この数日耳を澄ますと、なきごえが聞こえる。
 もちろん獣ではない。さりとて人間のものとも違う。
 舌をぬかれた喉で、己が怒りをうたいあげるような雄叫びには、聞くものの鳩尾を鷲掴みにするような凄まじさがあった。
 村人は決して口に出さなかったが、この数日の寝苦しい夜は、村の雰囲気をぴりぴりと殺気だったものにしていた。
 水菜は庭にでて、鬼の声にききいった。
 そのあまりの悽愴さにおびえ、山は息をひそめている。鳥や獣はねぐらで息を殺し、木々ですら眠たげな目を閉じおし黙っている。
 飄々と。
 ただ飄々と鬼の声が風をわたってくる。
 聞き惚れるというのとは違う。恐ろしくて身のすくむような声音である。並の神経の持ち主なら、頭から寝具をかぶり聞かぬにこしたことはない。
 身を固くして立ちすくむ水菜は、声の中にやるせない悲しみをきいた。
 人間よりも数段深い我の妄執の中に、己を憎むかなえられぬ望みをきいた。
 われしらず涙がながれ、声のもとに行かねばならぬとの声を胸のうちにきいた。
 十四年前のように。
 十四年前の母のように、鬼神の面をたずさえて水菜は夜道を駆けだしていた。
 とがめるものはない。
 今はそうすることが自然に思われた。


  五

 峠の山頂は開け、小高くなったところに桜が根をおろしている。
 水菜は、夜露をふくんだ下草へと足を踏みいれた。
 目を凝らしてみても、恐れていた鬼の姿は見えない。
 いつのまにか声も止んでいる。
 ただぴんと張りつめた静かな空間は、耳がいたくなるほどの鬼気で満ちていた。
 桜だけが・・あるいは、桜自身が鬼気のでどころなのかもしれないが・・悠然とのばした枝に、今まさに散らんとする花びらをだき抱えている。
 桜は魔性の花よ、とは古人の云うところだが、この夜のこの桜は格別のおもむきがあった。
 水菜もまた桜の美しさの虜になっていた。
 鬼の恐怖は冷水のように心の奥底までしみとおっている。しかし、ほんのしばらくとはいえ、おそれを忘れさせるにはそれは十分の美しさだった。
 さあ……
 さあおいで……
 乱れ咲く白い花をいっぱいにつけ、しだれかかる桜の枝は亡き母の腕のようにみえた。
 夜気を透明にそめあげる桜の甘いかおりは、水菜の心を少しづつ麻痺させていたのかもしれない。
 つと、
 キーン
 鋭い刃鳴りのような音が、胸元の仮面から響いた。
 全身を走る衝撃とともに、水菜は自分のいる場所を知った。
 木まであと十数歩のところまで近づいていた。あしもとには、白い花びらが吹きこぼれたように散っている。
 自分の鼓動が、びっくりするほど大きく聞こえだした。耳の先まで血液が一気にのぼりつめる。
「誰」
 声がかすれた。
 瞳に映ずる情景はかわらない。
 しかし確かに何かが、何者かの大きな力が形をとろうとしている。
 水菜は仮面を両手でかかえなおした。自分以外に頼りになるものはこれしかないと思った。母親の形見である以上に、共に村人から疎んじられたがゆえに生じた奇妙な親近感があった。
 桜のこずえは少女の立つ位置まで届いている。髪にそよぐ風もないのに、舞い散る花びらが頬にふれる。
 ガリ
 どこかで爪のきしむ音が聞こえた。
 同時に低い唸り声が空を震わせる。怨念にみちた呪詛の声。
 風がゆらいだ。
 桜の花びらが、一点に吸い込まれるように舞いはじめる。
 オオオオオオオ……ン
 慄然たる鬼気をともない、ふしくれだった古木の幹に闇が凝縮した。
 其は意思ある瘴気。死への欲望を覆い隠そうともしない、歪んだ精気の煌めき。瞬く間に、いや思いのほか長かったのか、人の顔を思わせる形にそれは拡散し収斂する。
 ねじくれた一本きりの角。あらゆる負の感情をないまぜにした、醜悪な形相。ぽっかりとあいた眼窩には無限の闇がのぞき、青白い憤怒の鬼火がちろちろと燃えている。
 鬼、であった。大の大人でも一抱えではすみそうもない、途方もなく大きな鬼の顔が忽然と空に出現した。
 水菜はその場を動けなかった。
 声すら思うようにならない。
 この威圧感の前には、最前の桜の美しさなどおよそ足元にもおよばなかった。
「さあ、渡せ……」
 われがねのような響きをともない、鬼が人語を話した。
「その、面を、渡すのだ……」
 心臓を締めあげるような圧迫感が少女を襲う。仮面を抱きかかえる両の腕をしっかりと胸に押しつけた。
「……な……ぜよ……」
 やっとのおもいで水菜は声を絞りだした。
 ゆらり、と鬼の表情がうごいたのは、人間のような心があってのことか。巨大な顔面は息の詰まるような瘴気を吹きつけ、人にはありえない牙を覗かせる顎が句を継ぐ。
「……おれはこの十四年というもの、この古木に封じられていた。
 その降魔の面が俺の身を滅し、こんな所に縛りつけやがったのよ」
 鬼は長い舌をたらし、別の生き物のように空にもてあそぶ。ぞろり、と顔を一なめして鬼は続けた。
「たとえ肉の身は亡ぼせても、我が魂を滅すことはできぬ。
 いまのうちにその仮面を打ち壊せば、俺はここから解き放たれるのだ」
 水菜は鬼の言葉を半分も理解できぬ。というより鬼が何を欲しているか、我が身に及ぶおぞましい望みを感じるだけに受け入れたくはなかった。
「苦しかったぜえ……この十四年はよ。人の精をすするどころか、このいまいましい桜に力を奪われちまう。しかし俺の声を聞いて、結界から仮面を持ち出す奴がおろうとはな……。さあ、面を渡せ」
 鬼の瞳が光をました。瘴気が渦巻き、虚空より荒縄を縒ったように筋肉が隆起する腕が引き抜かれる。
 呪にかかったように、水菜は歩を進める。
 あらがう気持ちがあった。同時に鬼の声に従えと命ずる声もあった。
 千々に乱れた心のまま、足だけが桜のもとへとむかっていた。
 あと十歩……。
 ぎくしゃくと前進しながら、唯一自由となる瞳できっと鬼を見据える。
 その妄執にみちた笑みを視界にいれた瞬間、からだの全細胞が前へ歩を進めることを拒んだ。
「いやぁ……」
 のども裂けよとばかりの悲鳴があがる。
  呪縛のとけた一瞬、力強い声が水菜の心の中に響いた。
……私を信じろ
 それはあまりにも唐突で、しかも身近に感ぜられた。
……ここは私にまかせろ。私を信じて、私にゆだねろ
「あなたは!?」
 おもわず口走りかけ、理解した。
 仮面から声が響いてくるのだ。
「何をしている」
 鬼が異変に気づいた。剛毛に覆われた腕をのばし掴みかかってくる。
「ならばこちらからゆくぞ……」
……早く!
 心を決めた瞬間、水菜の意識は拡散した。かわりに、覇気に満ちた別の人格が内からわく。
 しらず、水菜は仮面を自分の顔にかぶせている。紐もないのに、仮面はしつらえたようにはりついた。
 少女のものとはおもえぬ跳躍力を見せ、後ろへ飛び退いた水菜は悠然とした様子で鬼に対峙する。
「久しぶりだな、鬼よ……。今度は念も残さず消し失せてくれる」
 姿かたちはもとのままである。一瞬にして水菜の声は、その発する雰囲気は冷酷な男のものへと変貌していた。
 鬼の凄みのあるくちもとが奇妙な具合に歪んだ。笑った、のだ。
 鬼にとっても、この人格は旧知のものであるらしかった。明らかに鬼の口調がくだけたものとなる。
「その女の体をつかってまたおれと闘うというのか、氷務火よ……。
 ククク、もったいねえなあ。その女はおれの呼びかけに応えたのよ。
 おれのほうにとりつく権利があるとおもわねえか、父娘二代にわたってなあ!」

 鬼のくりだす突きを、手刀で払いつつ、水菜は・・いや氷務火はつぶやく。
「あさましや……。己が殺戮の欲望のために幾人にとりつき、幾百人殺めれば気が済むというのだ。ゆえあって面に封じられし身とはいえ、鬼を討つことこそ我が使命なれば……」
 氷務火は両手で奇妙な印を組むと、足を大地にしっかりとつけ、なにごとか低く唱えだした。
「させるかあっ」
 北東から腐臭ただよう風がまきおこり、澱んだ空気の中で鬼がさらに実体を成しはじめる。
 できかけの口からなおも不明瞭な音声が発せられた。
「おれはあの男の願いを聞きとどけたまでよ。
 一族のかたきを討ちたいがゆえ、おれを呼び込んだのは、あのサムライだったわ。
 おれをやい邪だの、やい忌まわしいだの云うならば・・人こそ呪われし身ではないか……」
 身の丈十尺はゆうに超えているであろう。
 ゆらり、と鬼が氷務火の前に立つ。赤ん坊と大人ほどに違う体格の差に、勝負は決まったかにおもわれた。
「鬼は隠にして居ぬものなり……」
 ふくれあがる鬼気を前に、微動だにせず氷務火は唱え続ける。
 その巨大さからは信じられぬほどの速さで、鬼は腕をふりおろした。充分に体重ののった一撃が、少女の華奢な身体にくわえられる。
 刹那、
「縛!」
 鋭い気合いが一閃した。
 鬼の鈍く光るかぎ爪が薄皮一枚で氷務火の首すじに接している。
 少女の長い髪が数本はらりと落ちた。
「ぐ……うっ……」
 目に見えぬいましめが鬼の全身を捕らえていた。
 冷たい声音で氷務火が言う。
「さあ、そろそろ逝ってもらうか……。
 お前のような輩がおとなしくしていれば、私もそう姿をあらわさずともすむ……」
 縛されている鬼が、身体をかがめた低い位置から目線だけ上げる。
「な……なあ、もとはと言えば、あんたは俺たちの親のようなものじゃねえか。
 人の輩に鬼道を伝えたのはほかならぬあんたの……」
 電撃が鬼の身体をはしった。青白い燐光が巨体を覆い、オゾンの刺激臭が鼻をつく。
 降魔の面の下の表情は窺いしれぬ。ただ、すっと目が細められる気配があった。
「鬼は気にして帰すべきものなり……」
 面の前で、少女の白く繊細な手が奇妙な形に組み合わされる。
 風がうずをまく。
 月光に照らされていた戦場が唐突に暗闇につつまれた。
 桜の舞い散るなか、氷務火の手印と鬼の目ばかりが燃えるような光を発している。 
「ヒッ……ヒーッヒッヒッ……」
 顔を地に向けて含み笑いをもらした鬼が、氷務火をねめつける。憎しみに燃えたその顔は、見ようによっては限りない歓喜の恍惚に間断無く襲われているかのようにもとれる。
 限りない滅びへの欲望。生きることにしがみつく人間よりも、死を恋焦がれる鬼の妄執はより暗く深いのだろうか。
「おれを滅ぼすか。
 おれが居ぬものとすれば、おぬしもまた無明の闇をさまようものぞ」
 気のふれたような高笑いが、虚空に響く。それは敗者の追い詰められた笑いではない。勝ち誇った嘲りが氷務火に浴びせられる。
 つと仮面が上を向く。
 白い手が静かにふりおろされた。
「………………!」


  六

 桜が散る。

 その上にさらさらと更に白いものがふりつもる。
 灰、である。
 氷務火の発した雷球は、鬼を完膚なきまで燃やし尽くした。

 風が舞った。
 すでにあたりに鬼気はない。なお残雪をのこす峰から吹きおろす冷涼な風だ。
 灰と桜が舞う中、降魔の面を手にした少女が立ちつくす。肩を落とし、うなだれ、微動だにしない。
 あれほど激しい闘いのあとだというのに、身体には傷一つない。
 長い髪が風にゆれる。目は閉ざされたままである。
 面が教えてくれた。
 十四年前のことを、面の歩んできた永の年月のことを。

 鬼のことを想った。
 面の主のことを。
 母を、そして父のことを。
 水菜は泣いた。
 生まれてはじめて声をだして泣いた。
 
 
 村からかがり火の近づくのが見える。
 もう夜明けは近づいていた。