壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

繭の日々

 今でも時に思うのだ。

 あの娘のことを。

 何時までも続く、あの夏の日のことを。


    一

 いま、わたしの手元には一枚の古びた写真がのこされている。大切に保管されていたらしいその白黒写真からは、少女が一人、はにかんだ様なそれでいて空に視線をなげかけている様な不思議な表情で、こちらに微笑みかけている。
 おそろしく古くさい型のセーラー服に身をつつんだ彼女は、咲き初めた桜を背にいかにも記念写真といった様子で真新しい皮鞄を手にたたずんでいる。けっして華やいだ姿ではないが、見るものをほっとさせるような、生き生きとした呼気を感じさせる雰囲気を少女は持っている。気のせいか彼女の周りだけ光が増しているような印象さえ覚える。
 いささか奇妙な経緯をたどってわたしのもとに舞い込んできたこの写真については、もう一年も前から話し出さなければならない。


    二

 高校を卒業した年の夏。いろいろあってわたしは一人、山あいへと旅にでていた。
 いろいろというのは、受験にドロップアウトしかけた末に、もぐりこんだ学校に自分の居場所を見つけられないこととか、数年来の家庭のごたごたからいい加減逃れたかったこととか、まあそんなこんなのいろいろだった。
 今にして思えば、そのくらいで思い詰めて思い詰めた自分に酔って、よりによって一人旅にでようだなどと考えた陳腐なセンチメンタリズムに情けなさのあまり泣けてくるような気分だ。
 ともあれその頃のわたしは自分の存在価値というものに癒し難い不安を抱えていた。人との交わりを避けるばかりに、旅の行く先はしぜんと人の少ない山中へと向けられた。
 移動手段はマウンテンバイクと自分の足だけ。その日泊まる宿もとらず、バイクに括り付けたシュラフが簡易寝台となった。都内のアパートを出発したわたしは、幹線道路を大都市沿いに行く気にもなれずとりあえず川を上流にたどるコースをとった。
 街からの脱出が急務だった。
 案外早く町並みは絶え、かわりに青々とした水田が視界にひろがっては流れてゆく。しばらくスポーツから遠ざかっていた身体に登り勾配はきつかったが、行く先も期間も決めぬ旅をマイペースに進めることは忘れなかった。
 マウンテンバイクはオフロード用のタイヤを履いてある。ところどころ舗装されていないところもあり、道は悪かったが山あいを縫う古い街道をゆくことにわたしは決めた。


    三

 その小さな、山懐に抱かれた町にたどり着いたのは、三日目のことだったろうか。終点らしい大きくて古びた駅の前の通りには、意外なほど立派な商店街が広がっている。石造りの見るからに戦前の建物であるらしい銀行が目をひく。
 そろそろ日暮れが近づいていた。バイクを手で押しながら、夕餉の買物客で込み合う店々の前をゆっくりと駅へ歩いてゆく。
 ふいにこのあたりには昔小さな城があったことを思い出した。なるほど家々の屋根は黒塗りの瓦で覆われ、石造りの水路が緩やかに傾斜した通りをはしっている。よく手入れされた庭木と年月の中で踏み固められた小路が、陰影にとんだ町並みをつくりだしていた。
 店頭にプラスチックの篭を積み上げたスーパーストアや、真新しい洋品店はこの町にあってはかえって異質なもののように感じられる。
 総じて古い建物の方が造りが立派なようだった。気をつけて見ると、しっかりとした外観でもいまは使われていない建物が多い。町に漂うどこか停滞したような雰囲気はこのあたりから発しているのかも知れなかった。

 線路はやはりこの駅で終わりになっていた。
 たった一人残っていた若い駅員から駅前のベンチで夜を明かす了承を得ると、今日やるべきことはもう終いだった。
 二本あるホームは片側しか使われていない様子だった。錆の浮いたレールは背の高い雑草に被われ、向かいのホームには二十年は前の風邪薬の広告の描かれたベンチが、夕日をあびて野ざらしになっていた。
「へえ、よく親御さんが許してくれたもんだなあ」
 この町の生まれだと語った気の良さそうな駅員は退屈だったようで、旅の無計画さを聞いて大げさに驚いた。
 小柄なわたしを見て高校生ととった節もあったが、あんまり感心してくれるのが気恥ずかしくて訂正する機会も失っていた。
「あの、この先はどうなっているんですか」
 廃線になったとはいえ、かつてはまだ線路が続いていたらしい。赤錆びた貨物車が置き去りにされている方向には、『のまつり』との表示がかかっている。
 野祭、と書くらしかった。
 戦前には何かの鉱脈があって栄えていたということだ。この町に活気がなくなってきたのも、鉱山が閉鎖されてからだと駅員は言った。十二年前に鉄道が廃止されて以来、野祭にあるのは千人に満たないの集落と小学校だけだという。
「もし野祭に行くのなら……」
 われしらず熱心に話を聞いていたわたしに、駅員が先回りして言った。
「もし野祭に行くのなら、『先生』を訪ねるといい」
「先生? 小学校のですか」
「そう。いや、もう教鞭は執ってなかったかな。でもこのあたりのことに一番詳しいのはあの人だろうから」

 べつにこの町の郷土史を知りたいわけではなかったが、野祭という言葉の響きには、はじめて見たときから惹かれるものがあった。駅員に道を聞き、野坂という名を教えられた。行く先を決めない旅にいい加減厭きてきていたわたしにとって、野坂『先生』を訪ねるという目的はちょっとしたアクセントをつけてくれそうだった。明日気がのらなければ、いかずともよいのだ。

 周囲を山に囲まれたこの町では、夕方から夜への移り変わりは速やかだった。ひんやりと湿った冷気が山からおりてきて、クーラーなしでは眠ることもできない、都会の寝苦しさを忘れそうだ。
 携帯用の虫除けを焚くと、シュラフにもぐり込む。じっとしていると駅舎の裏の山から、始終何かが崩れるような、大きな物が斜面を滑り落ちるような音が聞こえてくる。物音は近くなり遠くなりしつつ、途絶えることがないように思えた。結局何が原因か思い当たることはなかった。『山鳴り』という言葉を知ったのは、旅を終えてしばらくしてからのことだ。
 固いベンチにうずくまって、満月に近い月を眺めているうちに眠ってしまったようだ。不思議とその夜は街のことを思い起こさなかった。


    四

 翌日もうんざりするほどの良い天気だった。この旅をはじめてから雨に祟られたのは出発の朝ぐらいのものだ。
 しかし峰から吹きおろす風は頬に心地よく、街中のアスファルトに塗り込められるような暑さとは、過ごし易さの点で比べ物にならない。
 朝目覚めても例の野祭へ行こうという気は失せなかった。いまにして思えば、わたしはもうこの時分から自分の意思以外の力を感じていたのかも知れなかった。
 バスがやっとすれちがえるといった感じの道が、幅の狭い川と並走してはしっている。左手の山側からは木々が迫り、蝉の声が驚くほどのバリエイションをもって森を包んでいる。何かの拍子にふっと蝉の声が止むと、あまりの静かさにかえって耳の奥が痺れるような気分になる。
 野祭まで、自動車でも小一時間はかかるということだった。わたしはペース配分を考え、いつもよりゆっくりと山道を走っていった。

 野祭へ向かうには一応は舗装されている道をそれ、踏み固められた砂利道を山へ折れなければならない。それでもバスだけは通っているそうで、マウンテンバイクの苦になるような道ではない。
 いつしかわたしは野祭に入っていたようだ。両側の木々がまばらになり、行く手のなだらかな山の斜面に畑や軒の低い家屋が見える。
 サドルから腰を浮かせて、一際急になった斜面を駆けのぼる。道はそこから下っており、村を一望のもとに収めることができた。
 駅員の話から鄙びた農村を想像していたわたしの予想は、大きく修正しなければならないようだ。野祭の町はちょっとした盆地に蝟集するように広がり、大きさはともかく建物の込み合い具合は昨晩夜を明かした町にも劣らぬように見えた。
 わたしはバイクを降り、道のわきに道標のように立っていた大きな木によりかかった。
 外れに見える築山はくだんの鉱山によるものだろう。すでに下生えに被われてはいるが、高い鉄塔や幾棟ものスレート葺きの工場が打ち捨てられたように並んでいる。
 よく見ると町中にも工場や高い煙突、精錬にでも用いられたのだろうか、火の見やぐらのような鉄塔などが散見される。もちろん一つとして稼動しているものはない。
 平日の午前中だというのに、町から活気というものはまったく感じられない。通りに人や車の影があまりないこともあろうし(そういえば道中すれ違ったのは、制服の若者たちを乗せたバスが一台だけだった)、何より新しい建物が全然見あたらなかった。
「さて、と」
 ミネラルウォーターのキャップを絞めディパックにほうり込むと、マウンテンバイクを立て起こした。
 まだ町の正体を見定めたというわけじゃない。とりあえず小学校を探してみようと思った。


    五

「あのさ、道を教えてくれる?」
 私がこの町ではじめて出会ったのは、小学校の三四年生くらいだろうか、三人連れの子供たちだった。
 町外れのもう使われていない踏切で、戦争ごっこでもしていたらしい。手にはプラスチックのおもちゃのピストルを持っている。あたりにひろがる背の高いすすき野原には『敵』が潜んでいるらしかった。
 シッ!
 何を入れているのか、緑色のリュックサックを背負った少年が顔をしかめて言った。
「ヒロがほりょになってんだから、みんかんじんはしずかにしてよ!」
 あんまり真剣な物言いに、思わず声に詰まった。こんな子供に民間人呼ばわりされるとは夢にも思わなかったが、子供の頃に夢中になったごっこ遊びの興奮が私にも伝染したようだった。
 斜にかぶっていた化繊の帽子を右手で胸にあて、左手で敬礼の真似事をする。
「隊長殿。小学校へはどちらに向かえばよいのですか」
 腰をかがめてリーダー格らしいはじめの少年に顔を近付けると、小声でささやいた。
 最初キョトンとしていた少年は、すぐに飲み込んだ。帽子をかぶりなおした私に歯をむき出して笑うと、近くの丘のほうを指さした。
 背を伸ばし逆光の中を目を細めて眺めると、山肌の中腹に木々に隠れるようにして瓦葺きの木造建築が小さく見えた。
「あっ、あっち」
 三人の中で一番背の高い少年が不意に声をあげ野原に駆け込んだ。残りも負けじと奇声をあげて唐突に走り去っていく。
 礼を言う暇もなかった。
 三人の姿はすすきの中にかき消すように見えなくなった。わたしはにやにや笑いながら、妙に弾む心地でマウンテンバイクにまたがった。
「さて、先生とかいう人は御在宅かな……」
 すっかり習慣になった一人言をもらしたせつな、
『……どこへいくの』
 ペダルが半回転したところでブレーキがかかった。
 声はびっくりするほど間近で聞こえた。
 儚げな少女の声。その不思議な抑揚は一瞬でわたしを次の行動へと移した。すなわち、ためらうことなく振り向いた。
 ……何も見えない。いや、少なくともとっさに振り返った景色に一瞬前と違ったところはない。
 そろそろ日差しもきつくなる時分である。砂利道に照りつける日差しは熱気という質量を持っているようだ。草いきれと乾いた埃の匂いがわたしをとりまく。
 あまりにも明るく、細部までゆるぎないように見える光景に、少女の声のリアリティはたやすく融け崩れていくように思えた。
 もしここが真夜中の部屋の中ででもあったら、妄想が妄想を呼んであかりでも灯けなければいたたまれない所である。
 しかし気のせい、で片付けるにはあの声の独特のイントネーションには、現実ばなれした現実味とでもいうべきものがあった。
「誰かいる……訳ないよね」
 耳を澄ませても聞こえるのは野原の虫と、遠くの鳥の声ばかりである。
 ふぅっ。
 一息大きく息を吐くと、まとまりかけた何やら怪しげな考えを追い払うように、音がするほど強く手のひらで頭をたたく。
「学校へ行くぞ」
 自分にいいきかせ、わたしはもう一度強くハンドルを握った。


    六

 町中に入る前に左折し、林の中を切り開いたような道をペダルを踏み締めるようにしてのぼってゆく。少年の指した丘は確かにここだった。
 今時珍しいタールを塗った木の電信柱を二十本も数えた頃、古びた石の階段が現れた。
 両脇に一抱えはある石柱が二本立っている。校門のようだ。ほとんど摩耗して判らないが、旧字体で学校と彫り込まれているのが読み取れた。
 石段は思いのほか高く、上をみとおすことはできなかった。自動車用の道が他にあるのではないかとも思ったが、わたしはこの石段を脚で登ることにした。
 念のためマウンテンバイクにチェーンを掛けると、ディパックも下ろしウェストポーチだけの軽装になる。
 石段におおい被さるような背の高い広葉樹のおかげで、八月の日差しは涼やかな木漏れ陽へとかわってくれる。
 ついさっきまでうるさいほどに鳴き交わしていた蝉の声が、ふっと遠くなる。かわりに様々な匂いがあたりを満たしているのを感じる。
 しっとりとした落葉の匂い。
 石畳を緑に染める苔の匂い。
 香ばしい樹液の匂い。
 土の匂い。
 午前中の陽の匂い。川を渡る風の匂い。
 夏の匂い!
 まだまだ!
 世界がこんなにも匂いに溢れていたなんて、初めて知ったような気がした。
 思いきり胸を開いて深呼吸をしてみる。鼻からゆっくりと息を吸い込み、しばらく瞑想して口から静かに吐きだす。閉じたままの目から涙が溢れそうになった。
 ああわたしはこんなにも生きているのだ。
『………………』
 何かの声を聞いた。石段の上だ。
 小学校の子供たちだろうか。
 どういう訳か気が急いた。一段とばしで石段を駆け登る。視界が開けわたしの目に入ったのは……。

 わたしの目に入ったのは、杜だった。
 それが第一印象だった。
 西洋式木造建築とでもいうのだろうか。黒ずんだ木材が使われた三階建ての校舎は、周りを取り囲むように立つ年経た木々とあいまって、一つの巨大な植物のように見えた。
 あたりは奇妙なほど静かだった。
 いや、いままでと同じように虫の声も鳥のさえずりも風の音も、途絶えてはいない。ただおそろしく巨大な校舎からは物音一つしない。
 夏休みなのだから当たり前か。思うがしかし人気のない学校の不気味さは、抑えようもなかった。校舎を一つの生き物のように感じてしまった今ならなおさら。
 古びた校舎は物音を吸い取ってしまっているのだろうか?
 正面に年代物の時計を掲げた玄関がある。そこからV字型に校舎が迫り出し、背後に別棟の校舎の瓦葺きの屋根が覗いている。
 右手には花壇と藤棚が続き、奥には物置のような建物が見える。運動場は左手をまわってゆけば行けそうだった。
 確か野坂先生といったな。
 駅員から名前を聞いた人物は、学校の敷地内に一人住まいをしているときいた。
 あの物置みたいな建物かな。
 ことわりもせず見知らぬ校舎の中に足を踏み入れる気にはなれなかった。この歳になっても、学校というだけで漠然とした忌避感が先にたってしまう。
 ここ数日ろくに雨も降っていないのに、妙にしっとりとした下生えを踏んで校舎に近付く。
 見れば見るほど奇妙な建物だ。ひどく年代物なのに、少しも脆弱そうな造りではない。雰囲気は違うが大きな木造寺院を連想させた。
 かなり無秩序な校舎の配置は、長年の建増しや改築の跡をとどめている。窓硝子越しの校舎の中は薄暗く、あちこちから突き出た煙突に北国生まれのわたしは冬の厳しさを思った。
 そして無骨な煙突からその下の渡り廊下に視線を移したわたしは、白い横顔の浮かぶのを見た。
「えっ……」
 わたしに気づいたのか黒っぽい服を着た小柄な人影は……いやセーラー服姿の少女はついと校舎の中へ歩み去る。
 あの娘は?
 奇妙な連想が脳裏に弾けた。すすきの原の声は彼女だ。
「ちょっと、待って!」
 どきん、と鼓動の早まるのを感じた。思わず脚が前に出ていた。


    七

 渡り廊下は屋根だけの付いている簡素なものだ。野ざらしになっている机を足掛りに、打ちっぱなしのコンクリートにとびのる。
 間、髪を入れず目で少女を追う。左。
「待って。聞きたいことが……」
 聞きたいこと?
 そうだ何故わたしは彼女を追ってるんだろう。
 それでも脚は止まらない。靴裏の厚いゴムが板張りの床にあたって乾いた響きをたてる。
 廊下の幅はそれほどでもないが、天井が高い。採光が十分ではないため、頭上に影がわだかまっている気がする。
 階段だ。今まで他の通路はなかった。無理矢理なほど急な階段を駆け昇る。
「あれっ」
 通路は三つに分かれていた。
 となりの棟に続くらしい上に段差のある廊下と、奇妙な具合に捻れ先を見通すことのできない右側の通路。そしてすぐ後ろのもう一つの昇り階段。
 居た。右側の通路の窓に走り去る白い影。
 あわてて追いかける。静寂の中を自分の靴音ばかりが響く。
 暗い廊下にそこだけ切り取るように八月の陽光が差し込んでいる。見えつ隠れつする人影を追って、しゃにむに現在から取り残されたような校舎を走り抜ける。
 理化室。工作室。資料室。
 大きな額。何かのトロフィー。古ぼけたスピーカー。掃除用具入れ。水飲み場からは忘れられたように水滴がしたたり落ちる。
 ワックスとアンモニア臭と下駄箱と更衣室の匂いと、それと確かにひとの気配が感じられる。
 さらに階段を昇り、降り、廊下を右に折れ、直進し、破れかけたポスターを横目に次は……行き止まりだった。
「……?」
 見失った。そして。
「会いたかった」
 幽霊でもいるのかと初めは思った。背後に明治時代の写真から抜け出でもしたかのような、制服姿の少女が立っていた。
 艶のある長い髪は肩のあたりで束ねられ、シンプルなセーラーの冬服は小柄な体格にあつらえられている。絹のリボンから足元の革靴まで、黒づくめの姿はかえって肌の白さを強調しているようだった。
「どこから。あなたは……」
 声にならない。こんな綺麗な娘は初めて見た、と思った。
「会いたかった。永いこと、私を見つけてくれたのは……」
 語りかけ少女は近付いてくる。夜の闇を宿したような黒目がちの瞳は確かにわたしを見つめている。生活臭のない不思議なイントネーションには聴き覚えがあった。
「ええっと。そ、そう野坂先生を探してるんだけど、知らない?」
 彼女はわたしの言葉を聞いてはいたが、質問には応えず問いかけるような視線を返しただけだった。
「あの、ここって小学校だよね。夏休み中だから誰も居ないけど、わたしはただとおりかかっただけで。あんたを見かけて、何だか気になって追いかけちゃって。……名前、なんていうの?」
 沈黙に耐えられず、喋らずにはいられなかった。
「まゆ、よ。繭。蚕の繭。……さあ来て、こっち」
 繭は細い手でわたしの手首をつかむと通路の奥へひっぱった。繭のすべすべとした手からはちゃんと人の温もりが感じられた。
「奥ってそっちは行き止まりじゃ……」
 ではなかった。ありえない角度でその奥に通路が口をあけていた。
 「まさか……」
 自分で歩いていった記憶はない。微速度撮影のフィルムのように周りの風景が流れ去っていった。


    八

「ここは……」
 繭と名乗った少女はわたしの手をつかんだまま歩いてゆく。
 見ためは、今ではもう見慣れた木造校舎の廊下である。
 薄暗くてどこか黴くさく、ひんやりと黒ずんだ木の心地は不思議と懐かしい感じがする。
 決定的に違うのは、その構造が刻々と形を変えていくことだ。
 床板が、窓枠が、梁が、桟が、ドアが、ところかまわず融合し隣接し渾然一体となった空間を作りだす。前衛作家の空間芸術か、さもなきゃプリズムの光景だった。
 わたしと繭はこの奇妙な空間を歩いていた。上下の感覚すら覚束ない。今自分の足が踏んでいるところが下なのだと思うしかない。
 繭は慣れたもので、床から突き出た電球や水道の蛇口やなんかを身軽に避けてゆく。
「ここは夢の中よ」
 一人言でもいう調子で繭がつぶやく。
「夢? 誰の?」
「今はあなたの夢でもあるわ。ここはこの地の見る夢。この建物を通り過ぎていった人たちの夢……」
 少女自身夢見るような口調で言う内容はよくわからない。あてずっぽうで聞いてみる。
「じゃ、あなたの夢は?」
 繭は質問には答えず、不意につないでいた手を離した。
「ついてきて。見せたいものがあるの」
 ごく自然な様子で、繭は手近の戸を引き開けた。
 戸の後ろには、何もなかった。ただまばゆい光のほかには。あらがう間もなく、わたしは光の中に落ちていった。

 ………閉じたまぶたの上に何かが舞い落ちる。清冽な早春の空気が頬を撫でる。
 おずおずと目を開く。まず目に入るのは山桜の新鮮な白。濡れた地面の感触に、萌え出たばかりの芝の上に上半身を起こす。
 嬉しそうにさざめきあいながら歩いて行く女子学生たち。卒業式の光景。むこうではクラス毎に写真を撮り。体育館からは生徒たちの歌声が。
「これは……」
 視界が揺らめく。
 光景が切り替わった。
 かすかに聞こえるのは、お囃子の音。いつにない熱気が町を満たし。子供たちのはしゃぐ声が。精いっぱいの粋な装いをした貧しそうだけれど幸せそうな人々の姿は……お祭り?
「よく見て、覚えていて。過ぎていった夢を……」
 繭の声が耳許でささやく。
 暗転。
 地の底から響くようなくぐもった音が尾てい骨に響く。
 鉱山下の工場が……。防空壕へ……。もう一週間も……。切れ切れの悲痛な声。空が赤い。あれは炎か、それとも。煤けたような町に人々の声は暗く。ここはまだ食べ物が……。街はもう焼野……。かわいそうにこんな御時世……。細い腕で運動場を掘り返している子供たち。いや、耕しているのか。そうだ学童疎開というのが……。
 今日も空は煤煙で曇り。駅では男たちを送る人々の万歳の声が。……いつまでこんな…。
「これは……夢か。それなら早く……」

 雪が降る。この地方特有の湿った牡丹雪が、わたしの髪にあたっては砕ける。
 この腕の温もりは、わたしの胸に顔をうずめている細い肩は。少女……いや繭だ。
 わたしはやはりこの少女を知らない。ではこの懐かしい気持ちはなんだ。
「……あいたかった」
「どうして。わたしじゃないよ」
「すがたやかたちがかわっても、あなたは……」
「……さっきの光景は?」
「この土地の記憶、よ。ほんのすこししか感じられなかったけど、心の奥ではもっと」
「………………」
 するりと繭はわたしからからだをはなすと背を向ける。
「私はもうながくないの」
「……?」
「ここは特別な場所なの。ながいこと人々の想いがふりつもって、できた時の裂け目。でもみんながここのことを忘れてしまったら……もう誰もわたしを見つけられない」
 雪は相変わらずふりつもっている。痛々しいほどに小さい背中は、たとえようもなく儚げに見えた。
「あの、わたしでよければ……わたしは繭のことを忘れないよ。この土地の歴史も、いろんな人達のことも。だから……」
 だから、あなたもわたしを。
「……ありがとう」
 繭は、振り向いた。瞳にいっぱいに涙をためて。
 いつか。いつかもこんなことがあった。それはわたしの、十九年間の記憶だったろうか。繭のそんな泣き笑いの顔は、わたしの心のどこか隠された弦を弾いた。
 われしらず言葉が紡がれる。
「わたしはおまえを忘れない。おまえの愛した全てのものを」
 わたしはしっかりと繭を抱きしめた。そして……。


    九

 気がつくとわたしは初めて繭を見つけた場所にいた。
 一瞬おいて蝉の大合唱がスコールのように襲いかかる。
 夢だったのか。まさか! 唇にはまだ繭の柔らかな感触が残っている。
 年ふりた校舎はそのままそこにある。しかし繭は。
 校舎へ入って繭を探すことは、できなかった。もし見つからなかったら……。
 のろのろとわたしは歩き出した。

 野坂『先生』の家はすぐに見つかった。これも古びてはいたがせいぜい築三十年といったところだ。
 表札には野坂とだけあり、玄関も縁側も戸が開け放されている。どう言って会えばよいものだろう。
「君が物好きな学生さんかね」
 不意に背後から声がかかる。六十歳は超えているだろう。年のわりに背筋の伸びた老人が、可笑しそうな笑みをたたえて立っていた。
「河本君から電話があってね。そちらにちょっと変わった学生が行くからよろしくとね。はは、こりゃ失礼。こんな町の歴史を知ってどうするんだろうと彼が言っていてね。」
 野坂氏は例の駅員から連絡を受けて、わたしを探していたのだという。闊達な印象を与える彼は、もう十年も前に教師を定年退職し、今は用務員のようなことをやりながら、子供たちの習字の時間を見てやっているという。
 楽隠居をきめこむつもりが、この学校は長年の連れ添いみたいなもんでね、とは彼の弁だ。
 家の中は雑然としていた。というより荷造りしかけた荷物がそのままになっている。
「仕事の途中でちらかっとるが、まあおあがんなさい」
「お引っ越し、ですか?」
 茶の間の卓の上の散らばっていた書類を片付けながら、野坂氏が答える。
「いま茶でもいれるから……ああここらも取り壊しが決まってね」
「取り壊しって、まさか学校のですか!」
 わたしの剣幕に少なからず老人は驚いたようだった。
「……たしかに君はちょっと変わってるかも知れんなあ。そう、一応は重要文化財とかに指定されているから一部は残されるようだが。いまの生徒数じゃ校舎の管理もたいへんでね」
「だからってそんな……」
 言葉が思うようにでてこない。覚えていて、忘れないで。繭の言葉がとめどなく思い出される。
 そういうことか、だからわたしを……。
 黙り込んだわたしを興味深そうに眺め、野坂氏はやさしく笑っていう。
「あんたみたいな若い子にはまだピンとこないかもしれんが、形を失ったからって全てがなくなるわけじゃない。変化がないということは死ぬということと同じだと思わんか。たしかにこの学校にはいろいろな想いが詰まってはいるが、誰かがそれを覚えていればいい。いや、忘れちまったとしても本当は何も変わっちゃいないんだよ」
「でも。忘れられた思い出はいったい誰がうけとめると……」
「……それは人も同じことだよ。人の命はうけつがれ手わたされ、思い出だってそうだ。今度は君みたいな人達が、ここにいろんな想いを刻みつけていく番だ。さあ、そういえば聞きたいことはほかにもあるんじゃないのかね」
 老人の言わんとすることはわかるような気がした。ただ繭のことを考えると。
「いいんです。いや昔の話はもっと聞きたいけど、そうだ片付けの途中でしょ。わたしも手伝います」
 野坂氏は笑って遠慮したが、わたしには身体をうごかしているほうが楽だった。
「話は、仕事をしながらでも聞けるから。おねがいします」
「……じゃあ、今日やろうと思ってたところまで一緒に手伝ってもらおうか。二人がかりなら手間もかからないだろう」
 わたしは老人からいろいろな話を聞いた。その多くはこの学校にまつわるもので。町に活気があった頃のこと。昔は女学校として開設されたこと。戦時中のこと。このあたりに伝わる伝説やいろんな山の精の話も。そして……。
 古い雑誌類を束ねていたとき、本の間から何かがすべりおちた。腰をかがめてその四角い紙片を拾い上げる。
「……!」繭だ!
 古びてセピア色に変色した写真には、まぎれもなく繭の姿がそのままにあった。
 あわてて裏を返す。
 達筆な筆で、『昭和十二年春 真由』とだけあった。
 野坂氏が、くいいるように写真を見つめるわたしを覗き込む。
「まだそんな所に。写真はもう整理したと思っていたが」
 繭の表情は明るく、幸せそうに見えた。
「その人はわたしの姉だった人だよ。もう長いことあってないな」
「いま、どこに」
「その三年後に亡くなったよ。姉のことを覚えている人間ももう私くらいなんだろうねえ」
 何故亡くなったかは聞かないでおいた。この写真の中の繭は、きっとこれからも生きている。

「あの、不躾なお願いですけど。……この写真、私にいただけませんか?」


    Epiloguie

 野坂氏からの年賀状で、学校は正面の校舎と離れのいくつかの建物を除いてあらかた取り壊されたと聞いた。中には資料館のようなところに移築されたものもあったらしい。
 下の町には高速道路が通ることが決まり、ここらもどんどん変わっていきます。来年も是非遊びにいらっしゃい。
 葉書はそう締め括られていた。

 一年の間に、わたしも変わったと思う。
 もうあそこに繭はいないかもしれないが、新しいわたしを見せにもういちどあの地を訪ねてみようか。わたしはそう考えている。