壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

鬼頭魚

『鬼頭魚』


 餌を付けるのも馬鹿らしくなる釣果だった。イソメだけでカレイとセイゴが面白いようにかかった。俺は形の良いセイゴを残し、あとは海に放った。
 そろそろ午後二時も過ぎる。腹も減った。寒空の中、人気のない突堤でセイゴを三枚に下ろし、暖をとっていた一斗缶のストーブの上に鉄板を渡してホイル焼きにする。スズキの幼魚であるセイゴは焼いても煮ても旨い。釣り宿で用意して貰った握り飯で昼食にする。
 S県S町のはずれ、I……というこの漁村まで釣行に来たのは元同僚、Nの話を思い出したからだ。Nはこの漁村の出身だ。東京に出てきて、俺と同じ会社で働いていた。どこか眠そうな目つきの風采の上がらない奴だったが、人と話すより釣りの好きな俺とはなぜかウマがあった。
 そのNが突然会社を辞めたのは一年以上前の事だ。どうも漁業を続けている実家に不幸があったらしい。
「いまどき跡取りという訳じゃないんですが」と、言いつつも実家から連絡のあった翌日にはきっぱりと会社を辞めていった。Nが出身地の話をしたのは最後に会ったときのことだった。
「Tさんになら気に入ってもらえると思って……」
 妙にもったいぶってNは郷里の集落のことを話した。明治の頃までは鉱山でおおいに栄えた港町だったらしいが、今は最寄りの鉄道駅から路線バスで一時間以上かかる過疎の地であること。観光名所もなく、ほぼ自給自足の漁業の町であること。ただ、世間には知られていない絶好の釣りスポットであること。そんなことをボソボソと話した。
 大きなプロジェクトが終わりまとまった休みの取れた俺は、不意にNの話を思い出した。独身の気楽さで翌日には一日一往復のバスに乗って、くだんのIという集落に降り立っていた。東京からかけたNの携帯電話は不通。案の定、この場所は圏外だった。
 ネットで調べてもIという地域についての情報はほとんど得られなかった。バスの運転手から、この集落唯一の宿泊施設である釣り宿の存在を聞いたのは運が良かった。もっともその宿(とは名ばかりの民家)で聞いた最初のニュースはNの死だった。漁業の傍ら人も泊めるという宿の主は、Nは家業を継いだ最初の出航で海に落ちたという。死体はあがらなかったが葬儀は営まれた。
 Nの死に対する索漠とした気持ちも、釣りに興じている間は正直忘れていた。ホイル焼きを平らげ腹もくちくなり、煙草をふかしながらやや波の立つ海を見ていてやっと思い出した次第だ。荷物を減らすため、残った魚も下ろすことにした。ふだん料理はほとんどしないが、魚の扱いには自信がある。
 一番大きなセイゴの腹に出刃を入れた時、刃先になにか固いものが当たった。はらわたと一緒に一枚の硬貨が出てきた。バケツの水で洗ってみると、現在流通しているものではない。文字の刻印も無く、金属の材質も不明。擦り減ってよくわからないが、なにか顔のような造作が見て取れた。釣針や釣糸ならともかく、珍しいこともあるものだとジーンズのポケットに入れた。
 宿の晩飯は思いのほか豪勢だった。新鮮な魚料理がこの上なく旨い。ことに塩を振って姿焼にされた魚はこれまでに食べた事の無い美味だ。他に宿泊客もおらず、共に食卓を囲み勝手に呑み始めている宿の主にこの魚の名を聞いた。
「ああ、そりゃ“しいら”さね」
シイラ? たまに切り身で見るな。じゃあ、この姿焼はその幼魚か」
「いや、そのシイラとは違う。あんたの言うシイラはもっと沖まで出ないと獲れないが、ここいらじゃその魚もしいらというのさ」
 シイラと言えば大きな頭と刀のような縦に扁平な体が特徴の大型魚だ。ところがこの“しいら”はむしろカサゴに似ていた。よく発達した胸鰭と腹鰭は十分海底を歩けそうだ。妙な例えだが人に似た顔といいブルドッグに似ている。ちょっと鶏肉に似た締まった身は珍味といって良い。
「ところでこんなものを拾ったんだが……」
 ポケットに入れっぱなしのコインの事を思い出し、主に見せてみた。彼は目を見開いてギョッとしたように見えた。手を伸ばし、俺から硬貨を受け取る。
「あんた、これをどこで見つけたかね」
 魚の腹から出てきたことを告げると、六十絡みの宿の主は渋面を作った。
「まあ、これも何かの縁だろうが……。あんた、できればこれは海に返してしまった方がいい」
 そう言うといかにも辛気臭いという仕草で席を立ってしまった。
 翌朝、今夜も泊まることを宿の主に告げると今日も釣り具を持って浜に出た。
 曇天のべた凪。大物を狙うには厳しいが、この海ならそれもわからない。釣り好きの血が騒いだ。突堤から早速釣り糸を垂れる。数分も待たずにアタリがあった。これまでにない強い引き。大物かと期待が高まる。
 釣り上げてみるとくだんの“しいら”だった。三十センチほどの大きさの割にガッツがある。生きている姿を見ると、暗褐色でぬめぬめと光る鱗に覆われた姿は少々グロテスクだ。ドキュメンタリー番組で見たシーラカンスを思わせた。そういえばこの魚というよりカエルじみた顔は、昨日手に入れたコインの紋様に似ていないだろうか……。
 その時、港の方から騒々しいはやし声があがった。なにやら事件があったらしい。ひとまず釣り道具はそのまま突堤に置いて駆けつけた。
「しいら様だ!」
「しいら様が揚がった!」
 漁師達が半ば興奮した声を張り上げている。それに伴い、集落の住民が集まってきている。その中に釣り宿の主の姿を認め声をかける。
「一体どうしたってんだ」
 俺の姿に一瞬困ったような表情を見せたが、あれだよとアゴをしゃくる。
 見ると地引き網の中に体調二メートルに近い大きなしいらが揚がっていた。額は広がりその目は完全に前を向いている。二対の鰭はがっしりとした骨格で突き出していて、海中を泳ぐより岩礁を這うのに適しているのではないかと思わせた。陸に揚げられても呼吸しているかのように口を開閉させ、弱った様子を見せない。宿の主によると、このしいらはまだまだ大きくなるらしい。異様なその姿に、俺は完全に魅せられていた。
 徐々に人の輪は大きくなっていった。しいら様、という声とともに、主に年寄りの間から「あれはマスゾウだ」という呟きが聞こえる。マスゾウ? 確かNの下の名は益造ではなかったか。マスゾウ、マスゾウ、マスゾウ。村人の声が合わさっていく。
「なんなんだ、この連中は。マスゾウってのはNのことか」
 俺は助けを求めるように宿の主に小声で尋ねた。主はゆっくりと首を振る。
「大きなしいらにゃ特別の信心があるんだよ、ここいらじゃ。よそ者のあんたには関係のないことだ」
 関係ないと言いつつ拒絶する風でもなく、声にあきらめに似た響きがあったことが気になった。しいらはそのまま漁協の倉庫に担いで運ばれていった。魚の目が最後まで生気を失っていなかったのが心の片隅に引っかかった。
 その晩、俺は宿の主にあの魚をどうするのか訊くのをためらった。よそ者には関係ないというのはその通りだが、魚がどうなるのか気になって仕方がなかった。俺が口を開こうとすると、機先を制して主が話し出す。
「今晩だ。……夜半過ぎに廃坑に行ってみろ。あんたはNに縁のある人だ。これも偶然じゃないんだろう」
 それだけ言うと、疲れた様子で主は部屋の奥に向かった。俺はあてがわれた部屋で電灯を消して夜中を待った。
 何かの題目のような声が通りから聞こえてきたのは零時を半時も過ぎた頃だ。大きなトロ箱を担いだ壮年の男達を先頭に、主に年寄りの集団が山へと向かっていく。夜釣り用の強力なLEDライトを手に、俺は集団と十分な距離を取って後を追った。
 連中は坂道を上ると、宿の主の言うとおり廃坑に降りていった。廃坑への入口といっても、長年人の足で踏み固められた形跡があり、手入れがされていることを窺わせる。
 驚いたことに廃坑の中は墓地になっていた。所々に点けられた電灯が弱々しい光で墓石を照らす。さらに進むと坑道は不意に天然の鍾乳洞に繋がった。天井が急に高くなる。同時に湿気を帯びた風が吹き付けてくるのを感じる。潮のにおい。この中は海に繋がってでもいるのだろうか。
 つかず離れず俺は先を行く集団を追う。風に乗って連中の唱える声が切れ切れに聞こえるが内容まではわからない。そもそも日本語では無いのではないかと奇妙な考えが浮かぶ。潮のにおいがいよいよ強くなる。下り坂をかなり進んだ。ここはもう海面の高さなのかもしれない。
 空間がさらに一気に広がった。かすかな波の音。集団の持つ明かりに照らされて水面が見える。どうやら地底湖にたどり着いたらしい。岩陰に潜んで俺は事の成り行きを見守る。トロ箱が開けられた。案の定、中にはくだんのしいらが納められていた。男達は魚を担ぐと静かに波打ち際に降ろす。驚いたことにしいらはまだ身をよじらせて生きていた。
 その時だった。湖面が持ち上がり何かの巨大な頭部が現れた。咄嗟に俺はLEDライトのスイッチを付け照らす。
 そこには巨大な何かが“立ち上がって”いた。ぬめぬめとした暗褐色の鱗、胴体から突き出た鰭はすでに手足と言っていい物だった。そして人の顔を模したような頭部。その両目に確かな理性の光を見たとき俺の精神は限界を超えた。
 どうやって宿まで戻ってきたのかは覚えていない。宿の主は何事も無かったかのように俺を起こし、飯を食わせバス停まで送った。運賃前払いのバスに乗る際に小銭を探していると、ジーンズのポケットに入れたコインが手に触れた。もう一度ここに来るときは、帰ることは無いだろうなとなぜか思った。

序章:旅立ちのさだめ

『序章:旅立ちのさだめ』


 新月の夜、通り雨のあった森の空気は艶やかに湿っている。雲にさえぎられ星も照らさない闇の中、藪の向こうに息づく獣たちの気配をその鋭敏な耳でジジーは聴いた。
 柔らかな和毛(にこげ)に覆われた彼女の脚は、俊敏に山道を踏み分ける。人猫(じんびょう)の血を受け継ぐ彼女にとって、星無き夜も白昼と変わらない。むしろ森の気配が鎮まるだけ遠くまで感じ取ることができる気がした。

「……ついた」
 交易所と呼ばれている村界の丘である。ミズナラの巨木が小高い丘を覆うほどに茂り、その下に晦日みそか)市が立つ。枝の下は日が差さないため下草も生えず、人の足で踏み固められていた。
 樹の根元で灯りを手にジジーを待つ者がいた。この長命族(メトセラン)の里の長、メリエルである。灯りの作る輪の中にジジーがおずおずと歩み出ると、長も彼女の到来に気づいた。彼の目は既に盲(めしい)、耳もかなり遠い。
「ジジーよ、近くへ」
 少女の倍近くある長身の腰を折ってメリエルは招いた。長命族は年嵩になるほどその体躯は大きくなる。
「おまえは里を出なければならない。この樹におまえが託されていた日から十五年経った。人猫族の習わしでは十五で成人した若者は、他の種族の集うほうぼうの街へ出て己の運命を掴み取って帰ると言う」
 長が言葉を切ると背後に控えていた少年が歩み出た。メリエルのもと、兄弟同様に育ったアシハである。長命族の子である彼は、この先数十世紀を生きる。
 長は続ける。
「旅の供にアシハを付けよう。数十年ぶりに生まれた一族の息子と、おまえが同じ日に拾われたことは決して意味の無いことではない」

 ジジーは初めからアシハのいることに気づいていた。水面に映る自分の顔よりも、長い間目で追っていた姿である。アシハの差し出す手を頼りに彼の脇に寄り添った。
 アシハはジジーに丁寧にたたまれた布を手渡した。「母たち」からの餞別だと言う。開いてみると軽い銀糸で織られたケープである。長命族の紡ぐ銀糸は風雨を遮り、魔を寄せ付けない。
 長に定められた刻限のぎりぎりまでジジーを離さなかった母たちの顔を思い出し、彼女は強く目を瞑った。開けば涙が溢れそうだった。
「さあ時が満ちた。二人ともここへ」
 メリエルの示すよう、節くれだったミズナラの幹へ額を寄せる。
「胸騒ぎを鎮め、心を開き、体を忘れよ」
 メリエルの声が倍音となって周囲に満ちる。それまで風一つ無かったのに、梢の葉擦れまではっきりと聞こえる。道管を轟々と音を立てて水が吸い上げられ、この巨木の呼吸に合わせてゆっくりと大気へ吐き出されている。払暁に備えて数百万枚の葉は眠りについている。すべてが目覚めたときの歓喜を想像して、ジジーは気が遠くなった心地がした。
 メリエルがパン! と拍手を打った。儀式はそこまでだった。
「これでおまえ達とこの神木は結ばれた。安心して往け、必ずここへ戻る」
「お師さま」と、アシハが呼び止める。
「必ず戻って参ります。妹を連れて」
 すでに背を向け里へ歩みだしていたメリエルは背中で軽く頷いた様だった。長を迎えるかがり火が遠くに見える。

 ジジーの見つめる南の空へアシハも目を向けた。上を向いたジジーの瞳に濡れたものが溜まっていることに触れず、アシハはただじっと待った。
 ジジーもアシハもこの村界からそう遠くまで出たことは無い。まずは徒(かち)で一昼夜近くかかる南の人間の里、ハグへ向かうことになる。今出れば丁度夕刻に到着することになろう。
「さあ行こう」
 頃合と見て、アシハはまだ男としては完成していないほっそりとした手をジジーに差し出した。
「うん」と短くこたえてジジーも右手を繋ぐ。
 アシハはジジーの身にまとったケープのフードをしっかりとかぶせた。ジジーの特徴的にとがった耳はこれで隠すことができた。
「人間には自分達以外の種族を意味も無く嫌う輩がいると聞く。ここからは用心していこう」

 しっかりと手を繋いで異種族どうしの二人は歩みだした。空はいまだ暗く、星は見えない。

ジレンマ

『ジレンマ』


「……ぅえっくしゅん」
 中途半端にくしゃみを我慢していたら妙な感じの音になった。
 隣の席の小川恵が心配そうな顔でぼくをのぞきこむ。
 むずむずする鼻を左手で押さえ、空いた手で大丈夫と手を振った。
 世界史の北岡はこの小さな騒動には気がつかなかったようだ。黒板に向かって黙々とペルシア帝国の版図の変遷を板書している。もっとも北岡は黒板と教科書に向かってしか話をしないから、教室内はしたい放題でまともに授業を聞いている奴などいない。
 どうも風邪をひいたらしい。原因はわかっている。まだ春もはじめだというのに川につかって格闘を演じたからだ。
 昨夜のタガメ怪人は強敵だった。外骨格は硬く、鋭い前肢の刃と口吻にボディスーツもところどころ切り裂かれた。
 体を覆う攻性フィールドを右足の一点に集中した捨て身の打撃でなんとか辛勝したのだ。おかげで真空にも炎にも耐えられるはずのスーツも一時的に機能を停止し、ほとんど裸同然で川から上がってくるはめになった。
「熱があるなら保健室にいったら?」
 小声で恵が声をかけてくる。昨夜の戦いを思い起こして頭を抱えているぼくの姿を、熱があるのだと思ったらしい。
 ひたいに手を当ててみると熱があるのも確かだ。ぼくは恵の提案にのることにした。
「先生! 菱くんが熱があるようなので保健室に連れて行きます」
 こちらを見てうっそりとうなづく北岡を確認もせずに、恵はぼくの手をひいて立ち上がった。そのまま教室の後ろの扉から廊下に出る。
 恵がぼくに気があるのはわかっている。クラスメートにももはや公認のカップルだと思われているフシがある。しかしぼくは恵の気持ちに応えることはできない。
 この地での作戦行動が終了したら、ぼくはまた新しい土地に赴任しなければならない。その際にはぼくに深く関わった人間の記憶は消去処理されることになる。
 はじめから記憶に残らないことになっている思い出などむなしいだけだ。数度の作戦行動を経験してぼくはそのことを深く学んだ。
 早口でぼくを元気づけるために語りかける恵の目を見ながら、ぼくはつないだ右手の力を加減した。すべすべとして華奢なこの手をしっかりつかむことができたら、どんなに幸せだろうかと考えながら。

伝説と憂鬱

『伝説と憂鬱』


 伝説というのは伝聞によって作られるのではないかと佳澄は思う。伝説の主人公は聖人でも英雄でもなく、ただその場に居合わせて彼らなりの立場をまっとうしただけなのだ。事実なんて本当はたいしたことじゃない。聞き手が物語を勝手に作っていくのだ。

 ラグビー部の芝山透と出くわしたのは偶然だった。佳澄と透は幼なじみだ。いや、だったというべきかもしれない。小学校にあがるころに透の一家は佳澄の住む公団住宅から新築のマンションに越していった。
 駅前のショッピングモールで会ったのが偶然なら、同じ高校に進学したのも偶然だった。佳澄は母から聞くまで透のことなど忘れていた。なんでも中学のころからラグビーを始め、全国でも強豪校である(らしい)この高校に特待生扱いで入学したそうだ。佳澄のほうは偏差値と自宅からの距離を勘案して学校を決めただけだが。
 そんなわけで十年ぶりに会った透は、一六歳にして身長一八〇センチ、腕周りなど佳澄のウェストほどもありそうな大男に成長していた。
「またずいぶんと育ったものね」
 幼なじみを見つけて嬉しそうに声をかけてきた透に、佳澄は率直な感想を述べた。
「ひどいよカスミちゃん。久しぶりに会ったのに」
 透の泣きそうな笑い顔は昔と変わらなかった。ある種の大型犬に似てて愛嬌がある。
 連れ立っていた透の部活仲間の提案で、ショッピングモール内の喫茶店へ入った。ラグビー部は意外と女の子にもてるらしい。なかなかスマートな誘いかたに佳澄は少し感心した。

「……で、あれがラグビー部の芝山にフードバトルで圧勝したって女だろ」
 教室の出入り口から興味深げに自分の席をのぞきこむ視線と、少しも内緒話になっていない会話を極力無視して佳澄はクラスメートとのおしゃべりに熱中するふりをする。だから透など昔から格好だけなのだ。たかが超巨艦スペシャルトッピングフルーツ満載ジャンボパフェ、名付けて「空中楼閣」を食べきれないで女子が勤まるかというのだ。
 はからずも伝説の有名人となってしまった自分の境遇を嘆いて、佳澄はこっそりため息をついた。

「こんにちわ」と「ゆって」は「考え」深い

こんにち「は」を こんにち「わ」、「い」って を 「ゆ」って、と書く人が少し苦手です。

高校時代までは、まともに日本語も使えないのかよと思い、そういう人間を避けてきました。
しかし、大人になってもこういった人間は少なくないということに気づき、最近は割り切るようにしています。

知り合いの営業職の方が「感慨深い」を「考え深い」と書いていました。
口頭でも、文書でも他人とのやりとりが多い職業なのにそんな状態で大丈夫なのか少し心配になりますね。

自分も一層気をつけていきたいです。

公園の空

『公園の空』


 五月の夕暮れは日が長い。定時過ぎに会社をひけたぼくは、この街を縦断している公園のベンチに沈み込んでいた。ビジネス街と繁華街を繋ぐこの公園は、帰りを急ぐ勤め人や買い物客で賑わっている。
 夕日は公園を挟むようにしてそびえるビルに遮られて見えない。それでも快晴に近い空は明るく、オレンジから薄い水色にかけて西空に美しいグラデーションを成していた。
 鞄からクリップで閉じた書類を取り出し、表紙をながめる。午後イチの会議で提案しボツをくらった企画書だ。一週間かけたリサーチも必死のプレゼンテーションも一顧だにされなかった。課長の不採用の声に、同僚のフォローも入らなかった。ルーティンワーク以外の仕事が今日は入らなかったのが唯一の配慮かもしれない。
「どうした新入り、消耗したって顔してる」
 不意に聞き覚えのある声が響いた。反射的に背筋が伸びる。咄嗟にぼくは企画書を隠す。
「……おどかさないでください赤木さん。あと新入りはやめてください」
「二年目なんてまだ研修中みたいなもんよ。気にしない!」
 人ごみから不意に現れたのは同僚の赤木まどかだった。入社が二年早いだけだが、彼女の仕事ぶりは課内でも水際立ったものがある。加えて長身の美人ときている。ぼくは正直この先輩が苦手だ。
「私の指定席にちゃっかり座ってるなんて生意気ね」
 公園に隣接するデパートのマークが印刷された紙袋をぼくに押し付けると、彼女はことわる仕草も無くベンチの隣に腰をかけた。
「指定席って、ここは公共のベンチです」
「この時間のこのベンチは私がリザーブしてるのよ」
 先ほど渡された荷物を目で示しながら、彼女は手のひらを上にして右手を差し出した。中のものを渡せということらしい。
「えーと、このギネスビールの缶と紙コップとコロッケはどうすればいいんですか?」
「馬鹿ねぇ、缶ビールはグラスに注がないと泡がたたないでしょ。それにギネスのツマミは揚げ物って相場が決まってるの」
 赤木まどかは紙コップをひったくるとあごで注げと命じた。ぼくも紙コップを持たされてビールを注がれる。
「そんじゃ、ま。今日も一日ご苦労さん!」
 紙コップのビールを掲げて、濃厚なスタウトビールをあおる。確かにこれは揚げ物が合うかもしれない。ぼくと赤木まどかは夕焼けを見ながら、黙々とポテトコロッケとビールを交互に口に含んでいた。
「こうしてるとね」
 彼女は夕焼けから少し上の空を見つめている。
「だんだん空が澄んでいくのがわかるのよ」
 ぼくもつられて空を見上げた。
「青空がかき消えていくのはちょっと惜しいけど、空の底にある星がだんだん見えてくるでしょう」
 空がスミレ色から濃い群青色へと変わっていくあたり。たしかに星が少しづつまたたきはじめていた。
「だからどうだってことはないんだけどね」
 彼女はぐいとビールを飲み干すと、空になった紙コップをぼくに押し付けた。
「残りのコロッケはあげるから。ゴミはちゃんと始末しておいてね」
 バッグを手に彼女は立ち上がり、腰のあたりを軽く払う。
「それから明日は朝イチで第三会議室
 両手に紙コップを持ったまま間抜け面をさらしていたぼくに彼女は命じた。
「今日の企画書見てあげるから。もう一度上にあげてみましょう」
 どんな顔をして良いものかわからず、ぼくはただ二三度うなずいた。
 最後に一瞥をくれると赤木まどかはさっさと歩いて行き、見る間に地下鉄乗り場に消えた。
 ぼくは紙コップをベンチに置いて、もう一度空を見上げてみた。空はすでに夜に駆逐されようとしていた。街路樹の梢を揺らした風が、ぼくの額の熱を奪っていくように感じた。

よんどしー

『よんどしー』


「あぅうー」と彼女がつぶやいた。
「何語?」
 彼女はこたえず、上を向いて酸素の足りない金魚みたいに口をぱくぱくと開けた。
 ぼくも見上げた。四月の少しかすみがかった空。
 高層マンションと雑居ビルの建て込んだこのあたりでは空は狭い。穏やかに晴れわたった午前中の日の光は切れ切れにしか届かない。
「なんだか水の底みたい」
「どのあたりが水面かな」
 眉をしかめてビルの屋上あたりに目を凝らす。給水タンクと避雷針と衛星アンテナ。
 上まで登れば水面に手が届くだろうか。
「水底の水は重いんだよ」
 へぇ、とぼくは相づちを打つ。
「水は四度の時が一番重いの。だから氷の張った池の底でも魚は凍ってしまわないんだって」
「変なことを知ってるね」
「だって」と彼女は言葉を区切り、ステップを踏んでくるりと振り向いた。
 彼女のサテンのスカートの裾が魚のひれのようにはためく。
「もう春だから。水底まで日差しが届くのよ」
 先端が傾斜したビルのきざはしから太陽が顔をのぞかせた。
 まるで彼女を照らすために。