壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

公園の空

『公園の空』


 五月の夕暮れは日が長い。定時過ぎに会社をひけたぼくは、この街を縦断している公園のベンチに沈み込んでいた。ビジネス街と繁華街を繋ぐこの公園は、帰りを急ぐ勤め人や買い物客で賑わっている。
 夕日は公園を挟むようにしてそびえるビルに遮られて見えない。それでも快晴に近い空は明るく、オレンジから薄い水色にかけて西空に美しいグラデーションを成していた。
 鞄からクリップで閉じた書類を取り出し、表紙をながめる。午後イチの会議で提案しボツをくらった企画書だ。一週間かけたリサーチも必死のプレゼンテーションも一顧だにされなかった。課長の不採用の声に、同僚のフォローも入らなかった。ルーティンワーク以外の仕事が今日は入らなかったのが唯一の配慮かもしれない。
「どうした新入り、消耗したって顔してる」
 不意に聞き覚えのある声が響いた。反射的に背筋が伸びる。咄嗟にぼくは企画書を隠す。
「……おどかさないでください赤木さん。あと新入りはやめてください」
「二年目なんてまだ研修中みたいなもんよ。気にしない!」
 人ごみから不意に現れたのは同僚の赤木まどかだった。入社が二年早いだけだが、彼女の仕事ぶりは課内でも水際立ったものがある。加えて長身の美人ときている。ぼくは正直この先輩が苦手だ。
「私の指定席にちゃっかり座ってるなんて生意気ね」
 公園に隣接するデパートのマークが印刷された紙袋をぼくに押し付けると、彼女はことわる仕草も無くベンチの隣に腰をかけた。
「指定席って、ここは公共のベンチです」
「この時間のこのベンチは私がリザーブしてるのよ」
 先ほど渡された荷物を目で示しながら、彼女は手のひらを上にして右手を差し出した。中のものを渡せということらしい。
「えーと、このギネスビールの缶と紙コップとコロッケはどうすればいいんですか?」
「馬鹿ねぇ、缶ビールはグラスに注がないと泡がたたないでしょ。それにギネスのツマミは揚げ物って相場が決まってるの」
 赤木まどかは紙コップをひったくるとあごで注げと命じた。ぼくも紙コップを持たされてビールを注がれる。
「そんじゃ、ま。今日も一日ご苦労さん!」
 紙コップのビールを掲げて、濃厚なスタウトビールをあおる。確かにこれは揚げ物が合うかもしれない。ぼくと赤木まどかは夕焼けを見ながら、黙々とポテトコロッケとビールを交互に口に含んでいた。
「こうしてるとね」
 彼女は夕焼けから少し上の空を見つめている。
「だんだん空が澄んでいくのがわかるのよ」
 ぼくもつられて空を見上げた。
「青空がかき消えていくのはちょっと惜しいけど、空の底にある星がだんだん見えてくるでしょう」
 空がスミレ色から濃い群青色へと変わっていくあたり。たしかに星が少しづつまたたきはじめていた。
「だからどうだってことはないんだけどね」
 彼女はぐいとビールを飲み干すと、空になった紙コップをぼくに押し付けた。
「残りのコロッケはあげるから。ゴミはちゃんと始末しておいてね」
 バッグを手に彼女は立ち上がり、腰のあたりを軽く払う。
「それから明日は朝イチで第三会議室
 両手に紙コップを持ったまま間抜け面をさらしていたぼくに彼女は命じた。
「今日の企画書見てあげるから。もう一度上にあげてみましょう」
 どんな顔をして良いものかわからず、ぼくはただ二三度うなずいた。
 最後に一瞥をくれると赤木まどかはさっさと歩いて行き、見る間に地下鉄乗り場に消えた。
 ぼくは紙コップをベンチに置いて、もう一度空を見上げてみた。空はすでに夜に駆逐されようとしていた。街路樹の梢を揺らした風が、ぼくの額の熱を奪っていくように感じた。