壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

よんどしー

『よんどしー』


「あぅうー」と彼女がつぶやいた。
「何語?」
 彼女はこたえず、上を向いて酸素の足りない金魚みたいに口をぱくぱくと開けた。
 ぼくも見上げた。四月の少しかすみがかった空。
 高層マンションと雑居ビルの建て込んだこのあたりでは空は狭い。穏やかに晴れわたった午前中の日の光は切れ切れにしか届かない。
「なんだか水の底みたい」
「どのあたりが水面かな」
 眉をしかめてビルの屋上あたりに目を凝らす。給水タンクと避雷針と衛星アンテナ。
 上まで登れば水面に手が届くだろうか。
「水底の水は重いんだよ」
 へぇ、とぼくは相づちを打つ。
「水は四度の時が一番重いの。だから氷の張った池の底でも魚は凍ってしまわないんだって」
「変なことを知ってるね」
「だって」と彼女は言葉を区切り、ステップを踏んでくるりと振り向いた。
 彼女のサテンのスカートの裾が魚のひれのようにはためく。
「もう春だから。水底まで日差しが届くのよ」
 先端が傾斜したビルのきざはしから太陽が顔をのぞかせた。
 まるで彼女を照らすために。