壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

序章:旅立ちのさだめ

『序章:旅立ちのさだめ』


 新月の夜、通り雨のあった森の空気は艶やかに湿っている。雲にさえぎられ星も照らさない闇の中、藪の向こうに息づく獣たちの気配をその鋭敏な耳でジジーは聴いた。
 柔らかな和毛(にこげ)に覆われた彼女の脚は、俊敏に山道を踏み分ける。人猫(じんびょう)の血を受け継ぐ彼女にとって、星無き夜も白昼と変わらない。むしろ森の気配が鎮まるだけ遠くまで感じ取ることができる気がした。

「……ついた」
 交易所と呼ばれている村界の丘である。ミズナラの巨木が小高い丘を覆うほどに茂り、その下に晦日みそか)市が立つ。枝の下は日が差さないため下草も生えず、人の足で踏み固められていた。
 樹の根元で灯りを手にジジーを待つ者がいた。この長命族(メトセラン)の里の長、メリエルである。灯りの作る輪の中にジジーがおずおずと歩み出ると、長も彼女の到来に気づいた。彼の目は既に盲(めしい)、耳もかなり遠い。
「ジジーよ、近くへ」
 少女の倍近くある長身の腰を折ってメリエルは招いた。長命族は年嵩になるほどその体躯は大きくなる。
「おまえは里を出なければならない。この樹におまえが託されていた日から十五年経った。人猫族の習わしでは十五で成人した若者は、他の種族の集うほうぼうの街へ出て己の運命を掴み取って帰ると言う」
 長が言葉を切ると背後に控えていた少年が歩み出た。メリエルのもと、兄弟同様に育ったアシハである。長命族の子である彼は、この先数十世紀を生きる。
 長は続ける。
「旅の供にアシハを付けよう。数十年ぶりに生まれた一族の息子と、おまえが同じ日に拾われたことは決して意味の無いことではない」

 ジジーは初めからアシハのいることに気づいていた。水面に映る自分の顔よりも、長い間目で追っていた姿である。アシハの差し出す手を頼りに彼の脇に寄り添った。
 アシハはジジーに丁寧にたたまれた布を手渡した。「母たち」からの餞別だと言う。開いてみると軽い銀糸で織られたケープである。長命族の紡ぐ銀糸は風雨を遮り、魔を寄せ付けない。
 長に定められた刻限のぎりぎりまでジジーを離さなかった母たちの顔を思い出し、彼女は強く目を瞑った。開けば涙が溢れそうだった。
「さあ時が満ちた。二人ともここへ」
 メリエルの示すよう、節くれだったミズナラの幹へ額を寄せる。
「胸騒ぎを鎮め、心を開き、体を忘れよ」
 メリエルの声が倍音となって周囲に満ちる。それまで風一つ無かったのに、梢の葉擦れまではっきりと聞こえる。道管を轟々と音を立てて水が吸い上げられ、この巨木の呼吸に合わせてゆっくりと大気へ吐き出されている。払暁に備えて数百万枚の葉は眠りについている。すべてが目覚めたときの歓喜を想像して、ジジーは気が遠くなった心地がした。
 メリエルがパン! と拍手を打った。儀式はそこまでだった。
「これでおまえ達とこの神木は結ばれた。安心して往け、必ずここへ戻る」
「お師さま」と、アシハが呼び止める。
「必ず戻って参ります。妹を連れて」
 すでに背を向け里へ歩みだしていたメリエルは背中で軽く頷いた様だった。長を迎えるかがり火が遠くに見える。

 ジジーの見つめる南の空へアシハも目を向けた。上を向いたジジーの瞳に濡れたものが溜まっていることに触れず、アシハはただじっと待った。
 ジジーもアシハもこの村界からそう遠くまで出たことは無い。まずは徒(かち)で一昼夜近くかかる南の人間の里、ハグへ向かうことになる。今出れば丁度夕刻に到着することになろう。
「さあ行こう」
 頃合と見て、アシハはまだ男としては完成していないほっそりとした手をジジーに差し出した。
「うん」と短くこたえてジジーも右手を繋ぐ。
 アシハはジジーの身にまとったケープのフードをしっかりとかぶせた。ジジーの特徴的にとがった耳はこれで隠すことができた。
「人間には自分達以外の種族を意味も無く嫌う輩がいると聞く。ここからは用心していこう」

 しっかりと手を繋いで異種族どうしの二人は歩みだした。空はいまだ暗く、星は見えない。