壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

挿話:アザーサイド

『挿話:アザーサイド』


「やるきがおきない」
 実験体三十二号に直結しているスピーカーが響いた。生まれて初めてしゃべった言葉がそれだった。
安曇野センセ、どうしましょ」
 オペレーターの滝本エレクトラは生来ののんびりとした口調で言った。振り向きざまに見事な金髪がゆれる。
「とにかく回線は繋いどけ」
 安曇野清隆は唸った。
 実験体三十二号は培養ポッドの底に沈んで微動だにしない。ポッドのなかは高酸素含有溶液で満たされているため、陸上活動に適した改造人間でも問題なく呼吸ができる。
「やっぱりオオヤドカリのDNAがまずかったんスかね」
 実験体三号、通称フナ虫男が軽薄な口調で言った。
「ヤドカリだけに貝にひきこもりって」
「おまえも一応助手ならDNAパターンの再チェックくらいしとけ!」
 大げさに肩をすくめると、フナ虫男は長い第二触角を揺らしてコンソールに向かった。広い研究室内にはこの三名しかスタッフはいない。
 出来そこないの改造人間に命じて、安曇野は椅子に深く沈みこんで眉根を指で揉みほぐす。
 安曇野の眼下、くぼんだ実験槽に並んだポッドの一つで三十二号は沈黙したままだ。鈍い光をはなつ超硬質複合装甲シェルの空殻にもぐりこんだまま、強力なハサミで入り口を閉ざしている。
 加速培養中の教育プログラムに問題があっただろうか。それとももっと根本的な神経系のトラブルか。DNAシミュレーションでの成績が良好だっただけに、安曇野は落胆を隠せなかった。
 なにより三十二号計画には通常の倍近い予算が投じられている。敵との戦闘で敗れるのならまだしも、そもそも戦闘に投入できないのでは“あの御方”への申し開きが立たない。
 失敗作を連発し、最終的には自ら計画の被検体となって散っていった歴代博士の末路に思いをはせて安曇野は怖気をふるった。
「三十二号聞いているか?」
 マイクを入れて安曇野はごく穏やかな口調で語りかける。三十二号に直結しているモニター回線から、言語野が活性化しているのが見て取れた。
「コンビニ帰りのきみを合意無く拉致したことについては謝ろう。我々は非合法組織だ。話し合いなどの過程を経て、外部に情報が漏れるのはまずいのだ」
 安曇野は徐々に口調に熱を込める。
「しかしきみとて今の状況に不満はないはずだ。その外観はきみの変身願望そのものだ。どんな悪辣な苛めにも屈せず、その凶悪な両腕で憎いクラスメートを薙ぎ払いたいのだろう?」
「情動モニターに反応。パターンレッド」
 エレクトラが事務的な口調で告げる。
「やる気がでないなんて嘘だろう? 体の内側から無限の破壊衝動が湧いてきているはずだ。我らが首領ジブリール様の御力が注がれているのがわかるだろう?」
「……いや、ぼくは駄目だ」
 疲れ果てた口調で三十二号はこたえた。情動モニターも急速にゲインが落ちる。
「なにもしたくないんだ。役に立たないなら殺してくれ」
 安曇野はマイクのスイッチを切った。
「まいった……こんなケースは初めてだ。ここまでマインドコントロールを受け付けないとは」
「くっくっ、私みたいに人間の頃の記憶がそのまま残っちまったんじゃないですか?」
 フナ虫男が妙にキーの高い声で軽口をたたく。
「おまえの頃とは技術水準が違う! とにかくこのままジブリール様にお目通りをかなうわけにはいかん。エレクトラ君、三十二号の残存記憶を念入りにスキャンし直してくれたまえ」
 命じると安曇野は白衣を脱ぎ捨てて立ち上がる。
「はい。センセはどちらへ?」
「三十二号が人間のころ通っていた高校に潜入調査する」
 安曇野は痩身をそらし軽くストレッチをしてみせた。
「センセならお似合いですわ」
 エレクトラは婉然と微笑んでうなずく。
「当たり前だ、わたしとてまだ十七歳だからな」
 口の端をゆがめて笑うと、安曇野は後ろ手で軽く手を振りながら研究室を出た。
「偽名を考えなくてはならんな」
 独り言が声に出たことに気づいて顔をしかめ、安曇野清隆は司令部へと向かう。地上に出るのは一ヶ月ぶりだと考えながら。