壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

遺品

『遺品』


to:高野均巡査部長どの
from:柏木涼子
title:メモリ解析の件
date:2045年5月28日9時32分

 先日依頼いただいた携帯メモリの解析結果ができましたのでお送りします。このメールに添付したホロデータをお手持ちのデッキにて展開してください。できれば所轄のホロスタジオを用いられることをお勧めします。安全のためデータは巡査部長の公開鍵にて暗号化しています。
 サマリーはいつものように紙綴じの和文タイプ様式でホロの一番最初の地点に置いてあります。すべてのメモリ内情報にそこからアクセスできますが、今回のメモリには一つ大きな特徴があります。
 データはテキストデータだけでした。本件のメモリ所有者は一切の電脳化を受けていないホームレスだったと依頼文書にありましたが、バイタルデータはおろか、音声も映像も入っていませんでした。すべてが所有者によって打ち込まれたテキストデータ、それもおそらくはひとつの『小説』です。
 私には電脳セキュリティとホロデータ解析の専門家としての仕事は無きに等しかったのです。確かに今回持ち込まれた携帯メモリは非常に古いタイプで、インターフェースは自作せざるを得ませんでしたが、メモリサイズは一〇〇ギガバイトと取るに足らないものでした。最新鋭のバイタルセンサーなら数秒で食いつぶしてしまう容量です。
 意味解析をかけてこれが一つの物語であると判断した時点で、AIにVRホログラムを作らせてみました。驚くべきことに一つの世界、そして複数の人種と数多の人々の物語が緻密に描かれていました。まずはこのホログラムをご覧いただくのが手っ取り早いかと思われます。

 以下は個人的な感想です。昨夜ホロデータへの解析作業をAIに任せている間に、文章量を千分の一に要約したダイジェストテキストを作り読んでみました。一晩かかりましたが読む目を休めることが出来ませんでした。お許しをいただければ巡査部長にこのデータが渡った後も、複製を破棄せず手元に置いてもよろしいでしょうか。ぜひ彼の残したこのテキストを全て読んでみたいのです。
 ホームレスとして生活していた生涯のうち、三〇年近くをかけてこの文章は書かれています。彼がなぜこのようなものを残して死を選んだかは知る由もありませんし、私の仕事の分を超えます。捜査とは無関係に、ただ物語の全てを読んでみたいという好奇心が抑えられないのです。
 了承いただけることを願っております。仕事の都合が合えば、また湾上新区のバーでもご一緒しましょう。大学同期の吉野がいい店を見つけたと言っていました。あなたのいつか言っていたシングルモルトがあるとか。
 激務ゆえ体だけはご自愛ください。それではまた。