壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

電車のムンク

『電車のムンク

『ぶっ殺す』
 簡潔で過激な文字が目に飛び込んだ。ノートPCの液晶画面から躍り出て、まるでそこだけ輪郭が強調されたかのように感じられた。鼻白み、PCのタッチパッドを滑る指先が止まった。
 ブログのコメント欄に表示された時刻は二十分前のものだ。記名欄は空白になっている。勤めから帰宅し、いつものように確認した自分のブログだ。僕のブログは記事を書いたはしからコメントが付くような人気サイトではないし、スパムコメント前提で煽りネタや時事ネタを扱うようなたぐいでもない。
 友人たちに日々の出来事を伝えられれば十分な、せいぜい映画とか本とか自分の感想を共有できれば、という程度ではじめた他愛ないものだ。毎日更新しているおかげで、いわば常連とでもいう様なネットでの知り合いもできた。それでもたまに、コメント欄に反応があればいい方だ。
 今日だって夕方の通り雨で濡れた事くらいしか書いていない。こんな物騒な、しかも無記名のコメントが付くような心当たりはなかった。
 ……いや。一つの連想が形を成す。これは「ムンク」の書き込みなんじゃないか?
 その途端、暴風のように嗜虐的な感情が沸き起こった。僕はモニタをにらみつけ書き殴った。
『上等だ! 明日の夜、新木場で降りろ。公園に来い』


 ムンクというのは僕がつけたあだ名だ。通勤電車でよく見かける男につけたものだ。
 ひどく小柄な男だ。やせぎすで背広が中学生の制服のように見える。満員電車の中、いつも両手で耳を押さえ、両目をきつく結んでいる。乗車中、吊革にもつかまらず直立不動でその体勢を保っている。ムンク「叫び」を連想させる、このポーズがあだ名の由来だ。
 満員電車が好きな人などまずいない。ムンクのひどい貧乏揺すりと頻繁な舌打ち、そして男の発する得体の知れない雰囲気は、周囲の不快指数を一層高めていた。そして東京駅に着くと、男は一心不乱に車外へ駆け出す。周囲の乗客の安堵と、奇異の眼差し。
 一週間前、僕は偶然ムンクと隣り合わせになった。間近で観察すると、小声で常になにかつぶやいている。電車が揺れ、僕の足が彼に触れた。ムンクのつぶやきは一瞬途絶え、数秒後また再開された。何駅か過ぎた頃、そこだけ声が明瞭に聞き取れた。『ぶっ殺す』。
 その瞬間、僕の中で何かが弾けた。突然爆風のように、彼に対するサディスティックな妄想が際限なく膨らみはじめた。この貧弱な体格だ。肩を押しただけで簡単に転がせるだろう。耳を押さえたままうずくまるムンク。その腹に食い込む自分の靴先を想像した。低いうめき声に構わず蹴りを入れ踏みつける。ぐったりとしたところで胸ぐらを掴みあげ、妄想の自分は彼の体を激しく電柱に打ち付ける。容赦なく僕は男を小突き回す……。
 ムンクは普段通り東京駅で逃げるように降りていった。この顛末をおもしろおかしくブログに書いたのがその日の晩だ。無論、自分の暴力を欲する情動などおくびにも出さなかった。
『通りすがりのコメントにキレるなんてらしくないですよ』
 翌朝ブログに付いていたのは、付き合いの長い友人からのそんなコメントだけだった。
 しかし、僕の中には確かな感触があった。あのコメントはムンクだ。奴は僕の返信を読んだに違いない。
 ネクタイを締め、いつも通り鞄を手にする。そして社内の野球チーム用に購入したバットケースを肩にかけた。確かな重量が僕の心に暗い震えを走らせる。
 開いた右手を握り返す。肉を打つ金属バットの感触を、僕は確かに感じていた。