壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

渡り

『渡り』


「胸の上で両手を組んだまま眠ると悪い夢を引き寄せる」
 そう言ったのは祖母だったろうか。それとも夏休みで祖父母の家に遊びに来ていた、三つ年上の従姉だったろうか。
 その晩十歳のぼくは興味に駆られて手を組んだまま眠りについた。その時の夢は今でもはっきりと覚えている。
 すすき野原にぼくは立っている。薄暮を過ぎて空には星が瞬きはじめている。初秋のようだ。わずかに肌に触れる風は、歩きどおしだった体の火照りを少しずつ奪っている。
 虫の声一つしない野原に立ちすくみ、ぼくは何かを待っている。おそらくは一緒に家路につくことを約束した従姉だ。彼女とはぐれ、万一の待ち合わせ場所として野原の中ほどにある小高い丘を決めてあったのだ。
 その時鳥のような声がした。上空を見上げると数百は超える鳥の群れが西へ向かって渡っている。かなりの上空を飛んでいるわりにはその体躯は大きい。地平線に没した太陽の光が彼らには届いているのか、朱鷺色に照らされている。ヒョウヒョウという鳴き声ははじめて聞くものだった。しかもその姿がどうもおかしい。翼らしきものが見えず、どうみても両手を広げた人間のように見える。
 思いのほか速いスピードで群れは西の空へ飛び去り、やがて肉眼では追うことができなくなった。
「あれは河童の渡りよ」
 不意に従姉の声がした。ぼくが上空に気を取られている隙に近くまでたどり着いていたらしい。
「河童は夏の間は川に住むけど、冬になると山へ向かうの」
 そんな話ははじめて聞いたが、当時のぼくは従姉のことを信頼しきっていたのでそのまま信じた。
 後年、大学で民俗学のゼミを取ったぼくは、河童の異称にヤマタロやヤマワロというものがあることを知った。西日本の河童伝承には実際に山と川を季節ごとに移動するものがあるらしい。
 十歳のぼくの夢に出てきた河童は本当に夢だったのか。あるいは手を組んで眠ると悪い夢を引き寄せるという話を聞いたときに、一緒にこの河童の伝承も聞いていたのか。祖母も亡くなった今となっては確認のしようも無い。
 それでも今になっても眠りにつく際、両手を組んでは不思議な夢を見られないものか夢想することがある。確かにぼくは河童を見たのだという確信はこの先も揺らぎそうは無い。