壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

二人の食卓

『二人の食卓』


 1DKのキッチンから、千夏の小さな悲鳴とともに盛大に何かをひっくり返す音が聞こえた。
「大丈夫か!?」
 眺めていた雑誌を放り出し、浩紀は急いでのぞき込む。水びたしの床にはパスタ鍋が転がり、半泣きの千夏が座りこんでいた。
「火傷は!? どこかぶつけてないか?」
「……うん、大丈夫。ガス台にかけようとしたら重すぎて手をすべらせちゃって」
 浩紀は千夏の手を取って立たせると、小さな肩や背中に触れて異常がないことを確かめる。パスタ鍋を火にかけようとして、自分の方に向けて倒してしまったらしい。小柄な千夏にはガス台が少し高かったようだ。デニムのエプロンはもろに水をかぶっている。
「とりあえずここは拭いておくから、チカはエプロンを洗濯機に入れて」
「ごめんねヒロ兄ぃ。中も水かぶったみたい」
 エプロンの前を手で開けてのぞき込みながら、千夏が情けない声をだす。
「あー、今日は着替え持ってきてたろ。体拭いて着替えろ。タオルは洗濯機置き場の棚に洗濯済みのがあるから」
「うん……ごめんね」
 重い足取りで千夏はユニットバスのほうに向かった。
 キッチンの上には挽肉と玉葱、トマト缶が手を付けられずにあった。今年から大学生の一人暮らしをはじめた浩紀は自分ではあまり料理をしない。それでもミートソースの材料だろうとあたりがついた。缶入りのミートソースしか扱ったことがなかったので、家庭でも作れるものだということに初めて気がついた。
「さて、と」
 水のしみこんでしまった靴下を脱ぐと、浩紀は雑巾で床を拭きはじめた。二リットルくらいの水がこぼれたのだろうか、結構な量だ。水だまりに雑巾をひたしてはシンクで絞る。
 部屋の方に人の気配が戻った。着替えてきたのだろう、浩紀は何とはなしに目をやる。まだ下着姿で頭からタオルをかけただけの千夏の姿があった。十七歳にしては小柄で未発達な体。今日泊まりに来るのに持ってきた、大きなバッグに手をかけた千夏ともろに目があった。
「こっち見んな、バカッ!」
「あ、いや、もう着替えてると……」
 罵声とともにそこらにあったボックスティッシュが投げつけられた。
「ごめん、降参、あやまるから!」
 さらにフリーペーパーと空のエコバッグも投げつけてから、千夏はバッグを引きずってキッチンからの死角に移動した。
 千夏が視界から消えて、ようやく浩紀は両手を挙げた降参のポーズをといた。ちらっと見ただけだが、千夏の腕や腹部には痛々しい治療跡が見えた。下着姿よりも、その傷跡を見てしまったことが悔やまれた。


「なあ、晩飯は外にしよう」
 着替えてきた千夏に浩紀は提案した。
「今日の食材もそんなすぐ傷むものじゃないみたいだし。チカのはじめての手料理は明日の楽しみにして」
 千夏は仏頂面の残る表情で少し考えて、うなづいた。
「ヒロ兄ぃがそれでいいなら」
「どこがいい?」
 千夏は少し距離の離れたファミリーレストランの名前を口にした。大きくチェーン展開はしていないが、雰囲気が良く接客も丁寧でこの界隈では人気がある。
「OK、じゃあ上着きて出よう」
 アパートのドアを開けると涼しいと言っていい夜気が流れ込んでくる。来週にはもう十月だ。残暑の日もめっきり少なくなった。浩紀は千夏の手を取って二階からスチール製の階段を降り、頑丈なのが取り柄の自転車を出した。
 少し風を感じるが湿気はない。空に雲はなく、上弦の月が西の空にくっきり見える。千夏は荷台に横座りで乗り、LEDライトをつけた自転車は住宅街を走り出した。
「薬、持ってきたか」
「……うん」
「なあ、今日は家にいなくても本当に大丈夫なのか」
「うん、うちの家族もヒロ兄ぃのことは信頼してるから」
「信頼……か。なんだか微妙な気分だな」
「だって、昔からのチカを知ってるのはヒロ兄ぃだけだもの」
 しばらくの無言。自転車が国道に出た。自転車の二人乗りは警察につかまるんだったっけ。浩紀はぼんやりとそんなことを考えた。
「ねえ、ご飯食べたら河原で花火しようよ」
 不意に千夏が切り出した。
「馬鹿言え、もう花火なんて売ってないよ」
「いや、あるね。ほら、ドンキとかさ」
「周りの人に迷惑だろ」
「うるさくない花火なら大丈夫だよ。線香花火とかそーいうの」
 あくまで食い下がる千夏に浩紀は今年の夏、千夏がほとんど外出許可をもらっていなかったことにあらためて気がついた。
「そうか……探せばまだあるかもな。俺の友達に夏の残りを余してる奴もいるかもしれないし。携帯で聞いてやるよ」
「うん、うん! 絶対やろう、花火やろう!」
 千夏はこどもみたいにはしゃいでいた。その明るさが浩紀の心をかえって暗くした。自転車を漕ぎながら、いまの顔を千夏に見られなくてよかったと思った。
「来年まで待てなくてごめんね」
 小さくつぶやいて千夏は浩紀の背中に顔をうずめた。浩紀はこたえず、ただペダルに力を込めた。進行方向の月が霞んだ。