壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

ニワカドリ

『ニワカドリ』


 薄い壁がどんと鳴った。手にしていたコップの中の水に波紋が立つ。窓から差し込む朝日を受け室内に埃が舞うのが見えた。
 隣室の太田の野太い唸り声が聞こえる。またニワトリと格闘しているのだろう。僕は日課の長い歯磨きの手を休めることなく、奥歯の歯垢を掻き落とすことに神経を集中した。
 太田が六畳一間の狭い部屋の中でニワトリを飼いだしたのは一週間前のことだ。「ふすま」と雑草を与えるだけで毎朝特大の玉子を産むのだという。
 ニワトリの鳴き声に懸念の意を示した僕に対して、太田はこれは特別に品種改良した「ニワカドリ」だと自信に満ちた笑顔で答えたものだった。鳴き声をあげる器官を退化させ、その分の余剰な体力を玉子に蓄えるのだ。
 そんな話は初めて聞いたし、太田の手にするケージの中の生き物は丸々としているがごく普通のめん鶏としか見えなかった。
 それでも僕が黙ってうなずいたのは、太田の話に納得したというよりは、太田の丸太のように筋肉のついた二の腕と彼の遠慮の無い「どつき」を初対面以来一度ならずくらっているせいだった。だいたい屋内でニワトリを飼おうだなんて酔狂、数日で無理があると気づくに違いない。
 結局太田は玉子を一度も手にしていない。毎朝玉子を確認するためにケージを開けてはニワトリに脱走され、玉子の無いことに怒り狂ったあげく恒例となった大捕り物が繰り返される。
 ひときわ大きな太田の気合が発せられ、同時にガラスの割れる派手な音が響いた。
 家賃が安いだけがとりえの古下宿とはいえ、木造モルタル三階建てのこの建物はそろそろ町の史跡に指定されようかという由緒あるものである。この建物に居を構えていることを密かに自負していた僕は、太田の傍若無人ぶりに遅まきながら怒りを覚えた。
 歯ブラシを手に、部屋の窓を開け隣室の方向へ怒鳴る。
「いい加減にしろ!」
 太田も破れた窓から顔を出していた。いい機会だとさらに言いつのろうとする僕に太田は「あれ、あれ」と中空を指差した。
 三階の窓から望む市街は朝日を受けて輝いている。まともに差し込む太陽に目を眇めながら目線を上げると、白い塊が上昇してゆくのが見えた。
 ニワトリが飛んでいる。
 思いもしなかったほど幅のある翼を広げてまるでコウノトリのように羽ばたいていた。
 滑空しているだけでいつか着地するだろうと見つめる僕らをよそに、家々の屋根の上を軽々と飛翔し、ついに鎮守の森の梢を飛び越えて姿を消した。
 僕はまるで息をするのを忘れていたかのように深く息を吸った。
 太田が「うがあー!」と大声をあげて、やけくそのように後ろへ倒れこんだ。
 こみ上げてくる笑いを抑えきれず、ついに吹き出した。いつまでも僕は笑っていた。