壬生邸の庭

本と物語が好きな転勤族

カニバリィ

カニバリィ』


 俺は少女に語りかける。
「長い髪だな」
「だって髪を切ったことないもの」
「生まれてからずっと?」
「そうよ、私は自分のからだを傷つけることができないの」
「肌だって白すぎる。実験用のマウスみたいだ」
「さわらないで。あなたはお医者様じゃないもの」
「医者ならいいのか」
「そうよ。私の血は赤紫色をしてるのよ。一世紀も地下蔵にねかせといた葡萄酒のいろ。お医者様がそう言ったわ」
「そんな人間はいないよ。確かにきみの目の色はすこし変わっているようだけど」
「違うわ血の色よ。虹彩ごしにあなたにもそれが見えるだけ。だから初めに言ったでしょ。私は人間なんかじゃないんだって」
「でも見ためは人間そのものだ」
「そう創られたから。私のせいじゃないわ」
「つくられた?」
「だいたいあなたはどうなの、偶然そんなからだに生まれついただけよ。それともあなたは自分の意志だけでこの世に這い出してきた化物かしら」
「そんな事は言ってない。じゃあおまえは誰から生まれたんだ。親が無いわけじゃないだろう」
「私は私のためだけに創られたもの、よ。 でもそれ以上は私も知らないの。知りたいとも思わない」
 少女は一気にそこまで言うとぷいと後ろを向きもう俺のことなど忘れたようだ。
 板張りの床にしゃがみこむと、ながい髪が薄い背中を覆いかくす。
 俺とフェレスとの会話はこれまでだいたいこんな感じでまともに噛み合ったためしがない。
 彼女を拾ったとき(そう、フェレスとの出合いはまさに拾ったというのがぴったりだった)フェレスは自分は人間じゃないんだと言い張った。即座に俺は精神病院に連絡することを考えたが、捨てられた子猫のような彼女の姿につい部屋に上げてしまった。
 無論彼女は少なくともうわべだけはすこぶるつきの美少女だったという理由もある。うす汚れてはいたが病的に白い容貌。身の丈ほどもありそうな豊かな髪。そして紫色の光を湛えた見慣れぬ瞳。
 必ずしもよこしまな感情を抱いていたわけではないが、多少なりとも油断していたのは事実だ。
 これが小汚い爺いなら無視するかせいぜい然るべき筋に通報するのが関の山だ。あたりまえだが。
 フェレスというのも俺のつけた名前だ。耳学問だがどこだかの言葉で猫のことだったはずだ。
 呼ばれ慣れた名前などないかのように、フェレスはこの名に少しの抵抗もないようだった。このあたり猫らしいと言えなくもない。

     ☆

 ファインダーをよぎったのは白い影だ。
 ゴミの山を写すのがその日の俺の仕事だった。
 スチールラックとスプリングの飛び出たソファが折り重なり、大量の骨だけのビニール傘が海からの風をうけて腐敗している。裸になったブラウン管が堆積した廃棄物のいただきで奇跡のように鈍い光を反す。
 ぶよぶよとしたスポンジのような地面はひどく歩きづらい。肩に食い込むキャリーバッグの重さを罵りながら、俺は写すべき光景を探していた。
 湿った空気は潮の匂いとないまぜになった饐えた空気を執拗にはこんでくる。
 薄手のジャケットでは肌寒い。
 あいにくの曇天だ。
 もっとも廃墟のイメージでゴミ廃棄場をローキーに写す、というクライアントの要求には応えることができそうだった。
 最近の写真は素材さえあれば望みどおりに印象を加工することができる。記憶素材革命による情報の高精度デジタル化の恩恵、ってやつだ。
 最新鋭のデジタルカメラは一〇〇メートル先の人物の毛穴まで写しだす。
 それでも俺は今ではすっかり時代遅れになったフィルム式のカメラを商売道具にしている。印刷メディア用の素材としてはまだまだこれで十分だし、フイルムでしか出せない味というのはやはりあるのだ。
 そんなわけで、すっかり手に馴染んだニコンのファインダーに写りこんだのがフェレスだった。
 フェレスを最初に見つけたとき、彼女は横倒しのブルドーザーの影にうずくまっていた。
 ここらは一年以上前にあらたなゴミの廃棄作業は終っている。すっかり錆び付いて置き忘れられたような機械によりそうようにして、白い服の少女が身を丸めていた。
 俺はファインダーから目を離し、肉眼で白い人影を追った。
 マネキンか。さもなきゃ死体か。
 俺は音をたてないようそっと少女に近づいた。小動物めいた少女の姿態が騒がしく声をかけることを控えさせた。
 人間だった。眠っているようだった。
 ブルドーザーのキャタピラに身をあずけ、微動だにしない。
 身に付けているものといえば飾りけのないYシャツに運動着みたいな木綿のスウェットパンツ。それにどういう訳か薄汚れたぶかぶかの白衣だけだった。
 ひどく長い髪が目を引いたが、現実外の物質ででも出来ているようなそれは、頭の形にすんなりと流れ落ちていて、すこしもうるささを感じさせなかった。
 きれいな横顔だ。
 無駄のない頬から顎のラインからは、生活の中でどうしてもついてくる日常というものが欠けていた。
 肩からバッグを降ろし手にしていたカメラもその上において、俺は手をあけて用心深く足を進める。
 もとは色鮮やかだったろう古着があまざらしになっている。瀟洒なスツールが奇妙なほどまっすぐ置かれてある。
 それらをかき分けていただろうブルドーザーも、今では同じ廃棄物の一員として無骨な姿を横たえている。
 とうてい人間の生活できる場所ではない。産業廃棄物しか捨てられることのない区画だ。ここから一番近い整備区画までだってゆうに4、5キロはあるのだ。
 この少女も捨てられたのだろうか、そんな妄想がふと頭をよぎる。
 目が開いた。少女のである。
 どこか機械的な反応だった。俺もからだをとめた。どう応対してよいものやら見当もつかなかった。
 少女の顔がゆっくりと俺の方へ向けられる。
「何をしている」
 フェレスは、少女は思いのほか強い眼差しで俺を睨みつけた。印象的なバイオレットの瞳。
 思えばこの時から俺の頭のどこかでは非常警報のサイレンが鳴り続けていたはずなのだ。
 でも好奇心が勝った。もうすこし少女に歩みよる。脅かすといけない、手の届かない位置から声をかける。
「どうした、こんな所で」
「寝るところがないの」
 口調に媚はなかった。ただ冷たい外気をこらえているような白い顔は、ひどく寂しげに見えた。
 そして少女の異常なまでの美しさが俺の網膜に捉えられた一瞬、俺は既にフェレスに幻惑されていたにちがいないのだ。
 あまりにも異常な現実は、かえって人には受入れやすい物なのかも知れない。そう思いはじめたのはごく最近のことだ。
 俺は少女に手をさしのべた。

     ☆

 もう日が暮れようとしていた。
 仕事と私用と兼用の中古車に少女を乗せると、俺はとりあえず家へ向かうことにした。フィルムを現像しに発注元の現像室によるつもりだったがあきらめた。
 期日まではもう間がないが明日の晩にでも放りこんでおけば文句は言われないだろう。一人で納得するとフィルムをジャケットの胸ポケットに押し込む。
 自由業といえば聞こえはいいが、駆け出しのカメラマンに自由になる時間などありはしない。仕事を選ぶ余裕などあればこそ、でようやく糊口をしのいでいるのが現実だ。
 今日の仕事だって撮影地の選定から足代まで自前なのだ。
 ただっぴろいだけで荒涼とした、という形容詞がぴったりな埋立地を全速力で抜けると湾岸道路へ入る。
 妙に高揚した気分だったことを白状しなければならない。
 道中少女は一言も喋らなかった。
 俺の部屋は都心には近いがそのぶん質が悪い。前世紀に建てられた高層建築だ。
 例のカタストロフをくぐりぬけたのだから建物そのもはしっかりしているのだろうが、オフィスビルをそのまま区分けしてアパートにしているから間取りが出鱈目だ。
 水の出も悪いし、どういうわけか一フロアまるまるが閉鎖されている階なんてのもある始末。おかげで入居者が少なく好きなように部屋を使えるのはありがたいが。
 電子キーでドアをあけると、自動的に部屋の照度が上がる。
 インテリジェンス・ルミネサンスの白々とした明かりが少女の全身を照らしだした。
 こうして客観的に眺めてみると、改めて少女の奇妙なまでの整った印象が強まる。
 どこがどうというわけではないが、少女は人工的なこの部屋にあってはじめて自分を得たような印象があった。
 とりあえず作業台替わりのダイニングテーブルの前に座らせると、簡単な質問を投げかける。
 実際、フェレスは自分のことを少しも話したがらなかった。
 名前も、年も、住んでいたところも、学校も、両親のことも、おそらく自らの経歴にかかわることは一切要領を得ない。
 フェレスは身分を証明できるようなものも何一つもっていなかった。
 年の頃はもう十五、六にはなるだろうに装身具はおろか鏡の一つも持っていない。その割に何故少女の身の丈よりもある髪は少しも乱れることがないように思えた。
 唯一身につけていたYシャツとスウェットパンツにしてもごく在りきたりの……G社のものだった。
 せいぜい上着がわりに着ていた白衣から、どこかの病院(それも精神関係の)から逃げ出してきたのではないかと推測するのが限界だった。
 いや、何も喋らなかったわけではない。フェレスは機嫌の良いときにはやけに饒舌だった。
 名前はないと言った。でも前はエルと呼ばれていたと言った。Lか絵留とでも書くのか。年は知らない。あるいはまだ二つの季節しか知らないと。みた目は十五、六歳。話す内容も支離滅裂ではあったが語彙は異様に豊富だった。色々なところに住んでいたのだという。今の家は最悪だと言った。俺の部屋のことをなじったのかと思うと違うという。とても美しくて気持ちがよいがもう長くないという。何のことだか。学校は行ったことがあると言った。でも嫌い、若い子は騒々しいし勘が鋭いから、とか。両親は? フェレスは少し遠い目をしたがそこには何も映ってはいないようだった。知らないのだという、何を?
「ねむい」
 少女は相応に散らかった俺の部屋を一瞥すると、当然の権利を主張するかのように尋ねた。
 唐突な物言いに少々たじろぎはしたが、俺も疲れていた。部屋の奥のベッドをあごでしめし、勝手に使えとかそういう内容を伝えた。
 風呂や食事の用意でもしてやろうかとも考えたが、別に俺からおしつける義理もない。埃まみれの上着のまま、ベッドにもぐり込む少女をぼんやりと眺めながら、俺は本当に猫でも拾ったような気になっていた。

     ☆

 翌日、俺はとくに仕事がなかった。ひがな一日少女につき合ったが得るところは少なかった。
 さすがにあの格好のままうろうろさせるわけにもいかない。よく晴れた平日の午前中に少女の身の回りの品々を買い出しにいく羽目になるとは思わなかった。
 もっとも、一番驚いたのはこんな事を半ば楽しみに感じている自分の心の方だったのだが。
 とりあえず身なりをきちんとさせると、驚くほど少女は真っ当な「女の子」になった。
 十五、六歳というのは訂正だ。古くさいシルエットのジャンパースカートのせいかも知れないが、良家の箱入り娘といった感じだ。
 物言いも顔立ちもひどく大人びてはいるが、こうしてみると全体から受ける印象はせいぜい十三歳くらいといったところだ。それもかなり発育不良の。
 手足は白木でできた人形みたいに細くて無機質な白さばかりを感じさせる。
「ふうん……」
 お仕着せを着た時肩のあたりを気にしたみたいだが、すぐに興味を失ったようだった。
 気に入るにせよ入らないにせよもう少し反応がつかめるかと期待していた俺は少なからず落胆した。
「何か食うか」
 問いにいらえは無い。トーストとベーコンエッグで簡単な食事を作ってもべつに要らないという。
 この年頃の少女なんてこんなものなのだろうか。物心ついたころから父親と二人で暮らしていた俺には、想像の余地もない。世界にデジタルデータはあふれ返っているというのにこんな単純なことは誰も教えてくれない。
「ねえ、これは何」
 部屋のすみの大きな水槽をフェレスは熱心に覗き込んでいた。
「トカゲだよ。ミツメキノボリムカシトカゲ」
 100センチ水槽には目の荒い砂が敷きつめられ、黒ずんだ流木と葉の厚い観葉植物が置かれてある。
 流木の上で俺の唯一の同居者だったトカゲが、プラスチックみたいな青緑色の体を横たえていた。紫色の熱帯魚灯をたいてあるので、いっそう作り物めいて見える。
 三つ眼といっても本当にみっつ眼があるわけではない。丁度額のところに頭骸骨の隙間があり、微弱な電磁波を感じとる器官があるのがその名の由来だ。
 こいつは一週間に一度エサを与えていれば後はとくに世話を必要としない。とりたてて俺になついているという気もしないが、こんな無愛想な奴でも長いこと世話をしていれば情が移る。俺は子供の頃見た冒険映画の三つ眼巨人の名をとって、こいつにサイクロプスと名付けていた。
 映画で(そう、これはフイルムの、本当の映画だった)サイクロプスは六本ある腕の四本までに棍棒をもち、残る二本の腕でヒロインの女性科学者を捕らえていたのだった。詳しい筋はもう忘れてしまったが、今のホロ・プログラムの映像などよりよほど印象に残っている。
 見るとフェレスは水槽の蓋にしていたガラスをずらし、中に手をいれようとしている。
「おい、下手に手を出すな! 指くらい簡単に……」
 白い蝋細工みたいなフェレスの指先が、サイクロプスの背の敏感な突起に触れようとする。俺は席を後ろに倒して立ち上がった。
 嫌な想像に背筋がチリチリした。プラスチックのスプーン程度のものは飴のように噛みちぎってしまうのだ。
 あと二歩。
 間にあわな……
 !?
 ぽとん、とサイクロプスが木から落ちた。気絶でもしたかのように色の薄い腹部を見せてひっくり返っている。
「どうした!」
 いきおい余って俺は少女を抱き抱えてしまっていた。
 驚いた素振りもみせず、フェレスはゆっくりと手を胸元に戻した。
「おい、大丈夫か?」
 思わず息を飲んだ。
 フェレスのそこだけ別の生き物のような瞳が、仰向けになっているトカゲに注がれている。
 これが人の目か? 瞳孔が縦に綴じている様には見えはしないか。あの紫色はライトの色を反射してるだけなのか。これは人の目じゃない、何かもっと別の……
 かなり長い間言葉を失っていたような気がした。いやそれほどでもなかったのか。
「……ねえ……ねえってば」
 かたわらの少女の声が現実へと引き戻した。
「ああ」
 動転をとりつくろうようにことさらゆっくりと少女を床に降ろす。
 見るとサイクロプスはもう起き上がり冷血動物の緩慢な動きで木によじ登ろうとしていた。
 フェレスは……いや、ついさっきまでと変わりはなかった。べつにケガもしていないようだ。普通というには常軌を逸しているが今味わった妙な感覚は感じない。
「ねえ、この生き物私にちょうだい」
「生き物って……こいつのことか」
 フェレスの真意がはかりかねた。
「私気に入ったの、この生き物が」
サイクロプスっていうんだ。でも君に世話は無理なんじゃ……」
「この子は丈夫なの?」
「ジョウブ? ああ、うまく育てりゃ四十年は生きるらしい」
「ふうん」
 会話は一方的に打ち切られた。
 フェレスはもうトカゲには興味を失ったらしい。一つしかないベッド際の窓から、九階の景色を眺めている。
 テーブルにつくと、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に空ける。
 ……それよりもサイクロプスはなぜ急に木から落ちたりしたんだ。フェレスの目の奇妙な光を思い起こして、俺は形容し難い悪寒を押さえることができなかった。
 俺はいったい何を拾ってしまったのか。いまさらながら、自分は人間じゃないと言ったフェレスの言葉が不気味な影を伴って脳裏によみがえった。

     ☆

 翌日。
 フェレスは一向にものを口にしようとしない。
 ひょっとしたらこれが彼女の病気なのだろうか。
 俺ははやくも彼女を持てあましかけていた。同時にあまりに無防備であまりに奇矯なフェレスの振舞いは、われながら不条理な保護欲を喚起するものでもあったのだ。
 フェレスには普通の意味での羞恥心というものもどうやら欠けているようだった。とりあえず日常生活に必要なことがらは一人で出来る。しかしシャワーの後に大人の男である俺の前にそのまま出てきてもフェレスは何も感じてはいないようだった。
「おい、服くらいバスルームでつけろ!」
 陶器製のマネキンのようなフェレスの裸身は、少女らしい丸みや曲線とはまるで無縁だった。肩の骨はくっきりと浮き出ていて男の手でつまめば折れそうなほどだった。
 あまりに痛々しいがゆえにかえって俺は視線をはずすことが出来なかった。もっともフェレス自身はどちらにせよ何とも思っていないようだったが。
 いったいどういう生き方をしてきたのだろうか。今までのやりとりでこの少女の過去について詮索することは、徒労に終わると思い知らされたばかりだ。しかし俺はあえてそれを考えずにはいられなかった。そしてこの少女をこれからどう扱うべきなのかと。
 この日俺は家を空けないわけにはいかなかった。この半年続けてきた仕事の日だ。今の俺の生命線ともいえる仕事だった。
 フェレスを一人で部屋に置いておくのはかなり不安だったが、他によい手だてもなかった。女友達を呼ぶ事も考えた。しかし現在の事情を説明することとフェレスの性格とを考えると、とうてい実現可能な考えとは思えなかった。
 俺は勝手に外に出ないことをくどいほどに念を押した。
「わかったわ」と、殊勝気にフェレスは答えた。
 スチールの頑丈なドアをしめ、念のため外から鍵を掛ける。俺がドアを閉めてもフェレスは顔色一つ変えちゃいないだろうな……。
 ふと浮かんだ思いに、かえって俺はたじろいだ。あの薄気味悪い娘に? まさか!

     ☆

 その日俺は珍しく九時前に家に帰ってきた。フェレスのことが気にならないわけがなかった。
 鍵は……掛かっていた。少なからずほっとしてドアを引き開ける。
「フェレス?」
 部屋の中は真っ暗だった。このフロアだけ停電か? いや、サイクロプスの水槽だけが紫色のライトに照らされて部屋の中で浮かび上がっていた。
 静けさが胸騒ぎをかきたてた。
「フェレス、どこだ」
 さして広くない部屋を見わたし、低く声をかける。
 !?
 最初に視界に入ったときは見落としていた。水槽の中でサイクロプスが腹を見せて転がっていた。
「どうして……」
 照明をつけるのも忘れて水槽に駆けよる。
 三年間共に過ごした青緑色のトカゲは、今こそまさに一個のオブジェのようにみえた。生きている時と姿かたちは少しも変わるところはなかったが、生気の消失したその姿はひどく小さくみえる。
「それは、駄目だったわ」
 細い声。
 俺はゆっくりと振り向いた。幽鬼のような白い顔が音もなく立っていた。シーツを手にしたフェレスはどこか落ちつかなげな様子にみえた。
「そこにいたのか……これは……」
「駄目だったの。でも少し思い出したわ」
「思い出した? 何を」
 フェレスは視線を足元に向けた。口元は薄く笑っているような、あるいは何か言いたげな様子にみえた。なんて長い睫毛なんだろうと俺はひどく場違いなことを考えていた。
「私は……人間ね」
 不意に手を広げ問いかける。
 フェレスは拾ったときの白衣しか身に付けていないようだった。左胸の……あれは染み?
「ねえ! ワ・タ・シ・は・ヒ・ト・よ・ね・!」
 この少女はいったい何を言っているのだ。俺にどんな返事を求めているのだ。いままで自分は人間じゃないと言っていたのはおまえの方じゃないのか。そうだ、サイクロプスはどうして死んでしまったのだ。
 少女の瞳は、すでに異様な光を帯びていた。紫赤色の血、ダークパープルの瞳。俺はなすすべもなく立ちつくした。
 生まれて初めての恐怖。こいつは人間じゃない。
 ニンゲンヲトラエムサボリクウモノダ。
「ねえ……私は思い出したの」
 フェレスの薄い胸が呼吸の度に上下するのがわかった。
「このカラダは失敗だったわ」
 白衣の左胸の染みが広がる。
 あれは……血だ。イッセイキモチカグラニオイタブドウシュノイロ。
「だって、この子の体はもう私を支えることも出来ないほど弱っていたのだもの。それに狂っていたのよ。『私』の意識を遮断するほどに。知ってる? 今思い出したの。この子は【L−002】というのよ。生体移植用のクロ−ン体」
 クローン体? 噂には聞いていた。上の人間の間で延命用のクローンが法外な価格で取り引きされているという噂。アルビノの個体はその拒絶反応の少なさからとくに珍重されているという、まことしやかに、しかし決して表立っては囁かれない噂。
「私はこの子でもう衣装は六つ目なの。いつもはとても大切にするから120年は保つんだけど。でももう駄目ね。さっきあんな爬虫類に着替えようなんてして傷が開いたわ」
 左胸の染みはいよいよ広がっている。
「おかげで、『私』は意識をとり戻せたのだけれどね」
 少女のなかば楽しげな口調とは裏腹に、生命の炎の消えつつある表情はほとんど血の気を失っている。
 俺は立ちつくし呆けたように血塗れの少女を眺めていた。よくできたホロ・プログラムのようなものだった。まざまざとそこにあるリアリティとは裏腹の熱に浮かされたような非現実感。
 少女の閉じられた目蓋から鮮血が流れだす。
 ぞりっ。
 柔らかいものが引きはがされるくぐもった響き。
 少女の左胸から何かが自分の意志をもって蠢くいやらしい音が聞こえる。すでにフェレスの身体は自立的な動きを失っていた。小刻みに震え、それでも目に見えぬ糸に操られるマリオネットのように奇妙な均衡をもって倒れることはない。
 俺は半ば恍惚としてフェレスの肉体が切り裂かれるのを眺めていた。
 薄緑色の光を内部から放つそれはゆっくりとフェレスの左胸を喰い破って姿をあらわそうとしている。流動する光の粒子は絶えずゲル化と構造化を繰り返し、外気にさらされた本体をとりまとめようとしているようだった。鋭利な刃物を思わせる触覚がそこだけ別の生物のように肉塊から生えている。それに……奇妙に焦点の定まっている二つの眼球。
 はじめて俺が見つけたときに猫を思った瞳。
 紫色の宝石のような瞳。
 フェレスの、いやL−002の体が静かにくずおれても俺はその双眸から逃れることは出来ない。
 ……だから、あなたの、からだを、わたしに、ちょうだい

 美しい眼を持つ肉塊が俺の心臓を貪り喰うのを、俺は自分の眼で見つめ続ける。